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中部中会 2001年度教会学校教師研修会 講演

第4号論文   「青少年伝道と契約の子の信仰継承のために
          −日曜学校教案誌発行の狙いと用い方−」  
 (2002年1月)
               2001年11月23日(金)    名古屋教会
               相馬伸郎(名古屋岩の上伝道所宣教教師)


はじめに
 本日、ひとつところに集まって、共に学び、交わり、祈りあうひと時が与えられました。心から感謝いたしております。今年の大会におきまして、「青少年の教育」についての懇談会がわずか一時間でしたが、持たれました。それを受けて、来年の大会役員修養会の主題も、青少年の伝道、教育となるかと思います。これは、日本キリスト改革派教会の総力を集めて取り組まなければならない、最大の緊急の課題の一つであると思います。しかも、この伝道を担う主体は、各中会にあるわけですから、中部中会でも、このために協議し、具体的に何事かを生み出し、行動することが必要ではないかと思います。その意味で、期せずして、今回の研修会は大会の方向性と期を一にしていると思います。しかも、私共の日曜学校教案誌発行も、まさにその一助となることを求めてなされたものに他なりません。本日は、主題としては、日曜学校教案誌発行の狙いと用い方としておりますが、ただ日曜学校教案誌だけの事柄ではなく、皆様と、青少年伝道と契約の子の信仰教育の課題を巡ってご一緒に考え、祈るための発題とさせていただきたいと考えております。

I. 日曜学校教案誌発行の狙いと用い方
@日曜学校教案誌発行への思い

 何故、日本キリスト改革派教会には、「日曜学校教案誌」がないのか。それは、私共が加入へと導かれる間、大変大きな疑問として膨らんでまいりました。
 日本キリスト改革派教会は、福音主義教会とりわけ改革教会の源流に遡り、それを日本の地において豊かに展開することを目指している教会であると考えております。私は、そのような、教会形成の筋道を持つ教会として、これまで日本キリスト改革派教会は「果敢なる進軍」(創立宣言)をなして来たと一定の評価を与えられて良いと思います。先輩の教師、長老、教会員の皆様に心から感謝する者であります。
 この高く険しい道のりを歩み抜くために、教育の課題は、最重要のものとなると思います。そして、それは成人会員の教育においては、他教会をおそらくはるかに越える熱心さで、ウエストミンスター信仰基準を中核とした教理教育を推進してきたと思います。それが、私共の強みであることは疑い得ない事と思います。しかし、日曜学校における教育と言う点では、どうであったのか。日本キリスト改革派教会の日曜学校への取り組みの歴史を、大変勉強不足な者が判断することはできません。しかし、私共中部中会教育委員会が刊行致しました「日曜学校教案誌」のような形での教案誌はなかったのではないかと思います。
 個人的なことを申して大変恐縮ですが、私の学びました神学校の経営母体の日本ホーリネス教団には『聖書の光』と言う季刊の日曜学校教案誌があります。もう、かなりの歴史を重ねているものかと思います。他教会のことをあれこれ言う立場にはございませんし、比較のしようもないかもしれませんが、このこと一つをとりあげても、日本ホーリネス教団が日曜学校、青少年への伝道に力を注いでいることは明らかであろうと思います。あるいは、同じ改革教会の伝統を担う日本キリスト教会には、日曜学校教案誌があります。日本キリスト教会は、これは当然のことかと考えますが、大会がこれを発行しておられるように思います。全教会の献金によって運営されておられるようであります。さらに、日本キリスト教団の改革長老教会協議会発行の『季刊教会』にも日曜学校の教案が掲載されております。これは、教団(教会)形成には、日曜学校(教会学校)の共通したテキストが必要不可欠であると言う、基本認識があるからではないでしょうか。
 例えば、どのような教団・教派であっても、責任的な教団(教派)形成をしようと志すほどの教会であれば、まず何はともあれ教派立、教団立の神学校を整備しようと励むのはほとんど常識とされていると思います。一つの信仰告白に基づく教会形成を目指す教会であればなおさらの事であります。私は、これと同じ論理で、日曜学校教案誌の作成もその延長線上に当然出てくるのではないかと考える者であります。それだけに、ひとつの不思議だったわけであります。さらに申しますとほとんど衝撃的ともいえるくらいにショックであったのは、いわゆる福音派の日曜学校教案誌を採用しておられる教会もあると伺ったことであります。もちろん、それを一概に批判することは間違っているでしょう。教師会で教案研究をきちんとして、改革教会の信仰理解、教会理解と抵触する部分を確認すれば、利用することは可能かと思います。
 私共は、加入前の5年間を単立教会として開拓伝道に励んで参りました。もちろん、改革・長老教会の伝統を生きることを目指したそれでありました。開拓伝道は、最初が肝心であります。教会形成の基本、土台を据えるところで間違ったら、ほとんど修復が困難になります。そのような最初に、先ほども触れました『聖書の光』や『成長』をそのまま教師に手渡して、自分達の子どもや地域の子ども、(彼らは私共の将来の最有力な教会員候補者たちであります!)を教育させることは全く考えられませんでした。先ほどのような、教師会で日曜学校教案誌を用いて教案指導、奉仕者の指導をすることは、かえって困難を極めますから、勢い教会独自のカリキュラムを作る以外にありませんでした。

A発行の経緯
 その後、一昨年になりますが、この教師研修会の講師として立てられた東部中会の長島邦忠牧師の講演を伺いました。本当に、叱り飛ばされるような挑戦的なお話でした。先生ご自身が、伝道に専心してこられたそのご経験、自負がおありだからこそ、まことに説得力に満ちたものでありました。特に、印象的なお話として記憶に鮮明なのは、このようなお話でした。「日曜学校のクラス担任の先生は、子どもたちを牧会しているのか。例えば、その日の日曜学校を休んだ子どものケアーをすぐにしているか。もしも、その子が病気で入院しているのに、知らないままにしていたらどうなのか。もしも、その子が重篤であったら、取り返しがつかないではないか。学校の先生だけが訪問したりしていたのでは、日曜学校の教師として証にならないではないか」ということでした。長島先生は、日曜学校教師だけに厳しく挑戦なさったのではありません。むしろ、私共牧師に対してのものであったかと思います。「牧師は、本気で子どもの伝道を考え、取り組んでいるのか」。ほとんど憤りを込めた講演であったとの印象を持ちました。そして、おそらく出席者は全員、改めて自分の使命の重さを再確認し、悔い改めと励ましを受けたかと思います。
 先生はさらに、日曜学校教案誌についても触れらました。日本キリスト改革派教会として、日曜学校教案誌がないことについても厳しい批判をなさったと覚えております。私はそのとき、正直に申しまして、それなら何故先生が作ってくださり、大会を動かしてくださらなかったのかと、素朴に考えたのであります。もちろん、先生ほどの方ですから、何もなさらなかったはずはないと思います。そして、一昨年から、ふつふつとこれは、誰かが本気でやらなければ、必要性を感じている人がおられる限り、どうしてもやらなければならないのではないかと考えるようになりました。
 そして、昨年のこの研修会で、ほとんどの兄弟姉妹方が、日曜学校教案誌の必要性を覚えておられることを知らされました。そして、直後に開かれた教育委員会で議題にさせていただき、委員の末席の私がその道を検討することが決められたのであります。その決定を受けてすぐに、日曜学校教案誌の作成にとりかかりました。昨年の信徒神学講座の開かれたその日、木下牧師と名古屋の喫茶店で全体の構成と刊行までの道のりを話し合い、12月の中部中会第二回定期会の開催前、朝早く、伊藤長老にも加わっていただき、日曜学校教案誌発行までの段取りを決定したのであります。最初は、執筆した四人の牧師たちがそれぞれ自費で、子どもカテキズムと日曜学校教案誌を刊行することに致しました。それぞれ、伝道所の牧師ですから、相当の覚悟を皆さんにお願いしたわけでありますし、皆さんはそれを引き受けて、なんとかしなければならないと考えたのであります。しかし、四月に開催された中部中会の第一回定期会で、中部中会として刊行する道、費用を中会で負担して発行する道が、開かれたわけであります。

B日曜学校教案誌の用い方
 基本的に本誌は、使用してくださる教会の日曜学校教師会でご自由に、用いてくだされば良いと思います。まさに、これは、「案」なのであります。すべてこのカリキュラム通りに行ってくださいという思いは、少なくとも私の中には全くありません。むしろ、名古屋岩の上伝道所の教師会で何度も申し上げるのは、「分級で一番大切な事は、カリキュラムを教えて満足するよりも、子どもと祈ること、子どもに祈りを教えることです。心と心が通い合うような交わりを作ってください」と言う事であります。さらに、これは、まだ日曜学校教案誌の編集に関わってくださる教師と良く話し合ったことがないのですが、私自身、日曜学校で最も大切なのは、礼拝式であると考えております。その意味では、日曜学校は、子どもの礼拝共同体であると理解しております。礼拝共同体は、御言葉の学びなしには成立いたしませんから、その意味で、分級が大切になるわけであります。
 分級は、現場の教師が担ってくださいます。これは、他の、既成の日曜学校教案誌にはない、ユニークな点であります。この奉仕者が、まさに、手弁当で、忙しい日々のお仕事と生活を何とかやりくりして、原稿を記してくださいます。頭が下がります。牧師たちが、この信徒の方々の熱心を見ますときに、自分達の忙しさなどは、口に出来なくなるほどであります。本当に、心から感謝いたしております。
 そして、この第4号までの奉仕者の方々は、昨年のこの研修会に出席なさった方々であります。実は、裏話ですが、本日は、2002年度以降、第5号以降の奉仕者を募集し、発見し、依頼するのが、大きな目的なのであります。どうぞ、午後の分団にお残り下さい。
 用い方は、皆様の自由であります。ただし、既に、本誌に記されておりますように、これは、教師の準備を助けるためにも発行されているのですが、「虎の巻き」のような使われ方をしないでいただきたいとは考えております。
 ただ、聖書研究やカテキズム研究は、教師の皆様はもちろん、全ての教会員の皆様に読んで、信仰の養いを受けて欲しいと思います。これらを良く読んでいただいて、単なる小手先のようなクラス運営の準備にならないようにと考えます。そして、説教展開例の単元の狙いも良く読んでいただければと願っております。何を伝えるのか、伝えたいのか、そこでの教理の本質をここで確認していただきたいと思います。そして、分級の展開例も、時間が許す限り、単元の全ての展開例を見ていただければと思います。また、分級展開例も同じようにする必要はありません。まさに例を示しているわけであります。あるいは、下級のものを上級で利用することだってありうると思います。中学科で利用する事だってありうるかもしれません。とにかく、この例を参考にしながら、ご自分のクラスの子どもたちのために、工夫して楽しい交わり、福音の喜びがつくる交わりを形成していただきたい、その少しでもお手伝いをさせていただきたいと考えております。
 用い方は、私がここで何かを申し上げるよりは、採用してくださっております、皆様が後ほどの分団で、分かち合って頂きたいと思います。また、ご批判など忌憚なく出していただければ、今後の為に大変助かります。


II. 青少年伝道の活性化のために
 今年の大会では、大会の教育関係の諸委員会が懇談会を開催する提案を出され、わずか一時間ではありましたが、懇談会を持ちました。その中で、そして、その後、それらの委員会から、来年の大会役員研修会の主題を「青少年の教育」とする提案が提出され、受け入れられました。遂に、大会規模で日本キリスト改革派教会の教勢の停滞、とりわけ青少年の減少の問題を正面から取り上げられようとしております。神戸改革派神学校校長の牧田先生は、60周年記念宣言の草稿執筆者ですが、先生ご自身がその「終末についての信仰の宣言」よりも、緊急かつ重要な主題が青少年への教育、伝道ではないかと発言されました。私も全く同感であります。またある教師は、これは青少年の教育の問題ではなく、伝道の問題ではないかと発言なさいました。まことにその通りであろうと思います。日本キリスト改革派教会が、今、青少年伝道をどのように考え、取り組むのかが問われようとしております。そこでまさに、日本キリスト改革派教会の体質そのものの改革に取り組むことにすらなると思います。そのような覚悟をもってでなければ、日本キリスト改革派教会の将来を展望することはできないと思います。先の大会で、実際にある教師が、今後我々の中会はなくなるかもしれないと予言と言いますか、警告を発せられました。それほどの危機的状況にあるのであります。
 しかし大会で、一つの共通認識はお互いに確認されているように思いました。私共の先輩達の遺産、契約の子の教育への熱心、カテキズム教育は、素晴らしいし、これはそのまま継承し続け、発展させて行けば良いというものであります。もちろん、開き直ってのことではなく、これも、日本キリスト改革派教会で信仰に導かれた教師ではなく、加入なさった方のご意見として、日本キリスト改革派教会の信仰教育は、比較にならないほど、丁寧に熱心にされていることに驚かされたとの印象を語っておられました。私の印象も全く同じであります。
 さてしかし、青少年への伝道、教育的伝道という点では、まさに、来るところまで来てしまったというような危機感があるわけであります。そして実は、この日曜学校教案誌とは、その打開の一つの取り組みとして発行したのであります。もしかするとそこで、誤解されやすいと危惧もしております。この日曜学校教案誌がただ、契約の子の教育、これまでの日曜学校の取り組みの延長線上にあるわけではないのであります。私は、創刊号で説教、前書き、子どもカテキズムのオリエンテーション、そして、カテキズム第一部の解説を記させていただきました。日曜学校教案誌の目標、使い方は実は、既にそこで基本的なことは記したつもりでおります。皆様には、許されますなら、改めて創刊号をひも解いていただければ幸いに存じます。そこで、私は「伝道」と言う視点、地域の子どもへの伝道の取り組み、伝道そのものへの活性化の道を共にたずねることを呼びかけさせて頂きました。また、日曜学校を単に、カリキュラムを教授する「学校」として運営するのではなく、子どもの信仰共同体、いわば子どもの教会として形成する道をも主張いたしました。しかも、その最善の手段として、カテキズムを骨格としたカリキュラムの教授で担えるのだと主張させていただいたわけであります。そして、そこでこそ問われるのは、カテキズム教育の方法が、カテキズム教育の本質に則して行われる事であります。そのあたりの事は、創刊号で三川牧師が論文で主張してくださったことであります。本日、改めてその事には触れさせていただきます。
 青少年への伝道、これこそ、緊急の課題であります。そして、本誌はその取り組みの一助となることを目指しているのであります。
 昨年、ここでマルコによる福音書第10章13節〜45節から「子どもたちを主イエスのもとへ」と題して説教を語りました。創刊号に載せていただきました。そこで、「子どもらを私のところへ来させなさい」との主イエスの御言葉を語りました。子どもらとは、自分の力で主イエスの御許を訪ねることのできない乳飲み子、つまり、自力で救われる事のできない私共全員のことなのであると説きました。さらに、それを今日の私共の状況で読めば、契約の子よりも、地域の子らではないかと申しました。彼らは、親に連れられて来れません。親は連れて来てくれません。ですから、地域の子らへの伝道をしなければ、主の憤りを今日の主の弟子たる私どもが受けなければならない。主イエスの激しい憤り、嘆きを感じて、伝道しようと申しました。しかもその伝道は、日曜学校教師が外に出て行って勧誘することも意味があることでしょうが、むしろ、子どもたちを小さな伝道者として励まし、育てることによって、担われるのではないかと申しました。地域の子どもたちを何としても,教会に取り戻したいと祈ります。
 私どもは名古屋市緑区で伝道しております。皆さんのご記憶にまだ新しいと思います。名古屋市緑区で日本中に衝撃を与えた事件が起こりました。ぱっと思い起こされる方もおられるかもしれません。中学生による5,000万円恐喝事件であります。それは、まさに私共の伝道しております目の前で起こりました。その時、私どもは社会からも地域からも責任を問われませんでした。教会は何をやっているのだと叱責されませんでした。しかし、それは喜ばしい事ではないと思います。社会が、私共の伝道、教育に期待していないからであります。ビルの一室で開拓6年目を迎えた名古屋岩の上伝道所は、まだまだ地域に認知されていないと思いました。
 私共の教会は、その事件から、幼子を求めておられる主イエス・キリストから、改めて日曜学校の為に、全力を傾注して奉仕しなさいと迫られたと思いました。その事件でも明らかにされたのは、子どもの心の闇、荒廃の深刻さであります。日本の社会全体の深い病であります。今こそ、教会は力をあわせて、子どもたちに、「主イエスのもとに来なさい。教会に来なさい」、教育に携わる人々に、福音の真理を伝えて「主イエス・キリストが共に働いてくださいます。望みを失わず、愛の労苦を怠らないで下さい」と呼びかけるべきであると思います。それができるのは、この福音を知らされ、生かされている私ども教会、キリスト者のみであります。主イエスの福音のみが教育を支え、社会を育てるのであります。主の教会、主の弟子のみがそれを担えるのであります。ですから、私どもは、伝道にとりわけ青少年の伝道に教会は励まなければなりません。名古屋岩の上伝道所の日曜学校の働きへの力の傾注はこのような事件も与っております。
 さて、それならその伝道の武器となるのは、何でしょうか。それこそが「教理の体得」であります。これも、開拓伝道当初から、自らに言い聞かせて教会形成に励んでまいりました。教理の体得のないところで、聖書的な伝道を正しく担う事は出来ないからであります。伝えるべき福音の内容を自らが知らなければ、聖書的な伝道ではないのであります。これは、改革教会の決して譲れない筋、主張であります。既に、創刊号でこう記しました。「『子どもカテキズム』と『日曜学校教案誌』は、日曜学校の奉仕者だけではなく、全てのキリスト者の教育と伝道のためにあるのです、自分の口で福音の教え、主の御業を言い表すために、福音の言葉の獲得のために読んでください」。子どもカテキズムは、単に子どもや大人に文言を暗記していただければそれで良いと言うものではありません。カテキズム教育は、自分の口で、自分の言葉で福音の喜び、福音の真理を説く道をたずねるための最高の、最善の道なのであります。説教者たる者にとって、カテキズム、教理問答を学ぶことがどれだけ力になるか、その基礎となるかを思わざるを得ません。それは自分の語る福音の内容を整えることであります。救いへの道、救いの道をきちんと弁えるために、牧師は、これは改革派の牧師にとって、当たり前すぎることかもしれませんが、カテキズムを座右にして、聖書を学び、神学することは基本であります。

III. カテキズム教育と「子どもの教会」
@カテキズム教育が生み出す「交わり」、「共同体」

 『子どもカテキズム』の作成の経緯についても、創刊号で記しましたので、そちらを読んでいただければと存じます。『子どもカテキズム』の表紙の図像は、相馬直子さん(名古屋岩の上伝道所日曜学校校長)がイメージをつくり、伊藤穂波さん(四日市教会会員)がパソコンで仕上げて下さいました。左上から小さな円が少しずつ右下に向かって広がり、右下からも左上に向かって小さな円が広がっています。これは「響き」をイメージしたものです。「カテキズム」とは、ギリシャ語の「カテーケーシス」と言う言葉に由来します。直訳すれば、「下に向かって響かせる」という意味であります。
 キリスト教会の信仰教育=教理教育は、「カテキズム」と言うあり方に整えられてまいりました。これは単なる偶然ではないと思います。先ほども申しましたが、福音の本質そのものが教会の教育の「あり方」「方法」を規定したのだと思います。「カテキズム」を用いた教会の教理・信仰教育。それが正しく行われるときには、いつも「響き合い」が起こると思います。そしてそれをこそ目指して担われるべきであると思います。それならその響きとは、一体どのような響きなのでしょうか。
 日本語の「福音」、ギリシャ語では「ユアンゲリオン」です。先輩たちがそれを「福音」と訳したことは、素晴らしいと思います。「喜びのおとずれ」。福「音」という漢字にはすでに、素晴らしい音色、響きが示されているように思います。神は上から、私共に向けて、「あなたの罪は赦された。私はあなたがたを愛している!」と語って下さいました。その時に、下から「やったぁ!ありがとうございます!天のお父さま!」との叫びが挙がったのであります。そこに神の民、キリストの教会が誕生いたしました。実に、私共は主イエス・キリストの恵みの響きに「共鳴」することが許されたのであります。この共鳴、響き合いが起こると言うことは、そこに命の通い合いが起こったということを意味しております。地上で、私共は神の子とされた喜び、すなわち救いの喜びの叫びをあげています。
 『子どもカテキズム』は、問1で、「私たちは何のため生きるのか」、つまり、ウェストミンスター小教理問答と同じ問いを立てました。そして問2で、「どうしたらそうなりますか」を問いました。答えは、「主イエス・キリストを信じて救われること、神さまの子どもとされることです」であります。救いの喜び、それは、神の子どもとされる喜びであると言いました。子とされる教理、救いの喜びが、このカテキズムの基調音であります。そして、それは、いずれのカテキズムであっても、歴史を越えて教会を生かしてきたのは、この喜び、この福音の喜びの力を鮮やかに指し示すものであったのではないかと思います。
 地上の神の子らの喜びの叫びを聴いてくださる、ご覧くださる神は、いよいよご自身の喜びを溢れさせることとなると信じます。そして、その神の喜びを知らされる私ども、その神の喜びにあずかる私どもは、さらに私どもの喜びを深めます。神の喜びを喜ぶと言う、喜びの質を高めます。それは、まことにこの世にない喜び、神的な喜びであります。その喜びが、神と私共の相互にこだまするのです。響き合いが生じるのであります。それは、人格的な交流であります。教会とはまさに、このような「響き合い」によって成立させられております。この響き合いが最も生じる時と場はどこでしょうか。言うまでもなく「主日礼拝式」であります。このようにして、神の教会、神の民の教会が生みだされるのです。神の愛の「響き」が、人の内にも響きを、愛の響きをたてさせる、そのようにして教会は建て上げられて行くのであります。
 明治の頃、キリスト教はアーメン教、キリスト者はアーメンさんと揶揄されたことがあります。戦前まで続いたのかもしれません。アーメン、これは私共の祈りにおいて、礼拝式において必ず唱えられる言葉であります。未信者の人々にとって、キリスト者や教会が「アーメン」をそれこそ連発するので、そのような印象を持たれたのでしょう。しかし、彼らがアーメンの意味を知ってくださって、私共をアーメンさんと呼んで頂くなら、それは真に光栄なことではないでしょうか。アーメンとは、主イエス・キリストの別名であります(ヨハネの黙示録第3章14節)。神は、私共に御子イエス・キリストをお与えくださいました。それは、私共に向かって父なる神が「アーメン」と仰ってくださった出来事であります。それを聴いて受け入れた人はその内側から、神に向かって「アーメン」が生まれます。私共の唱えるアーメンとは、神の私共へのアーメンの反響なのです。「こだま」なのです。神の響きこそが、私共に響きを生むのです。それは、「神の真実(ピスティス=信仰)」のみが、私共の「真実(信仰)」を生み出す源であるということです。
 上(神)からの響きと下(人)からの反響、響き合い。それが表紙のデザインの骨格です。しかし、それだけなら真上と真下からの円の広がりとなるかもしれません。しかし、実際は、左上からそして右下からの円の広がりとなっています。つまり、これは、横どうしの響き合いということをも表現しているのです。これが私共の「カテキズム」とその教育方法、あり方のイメージなのです。カテキズム教育には、当然のことですが、そこに教える人と教えられる人がおります。しかし、それは一般の学習・教室の世界とは異なります。そこでは、教える人は自分の知識を伝えます。教えられる人は一生懸命、理解し覚えようとします。そのような一般の知識の伝達を目指す学習共同体においても、単なる上から下への伝達という図式ではなく、教師も生徒も知識や真理をめぐって真剣に響き合う環境を作りだすことができれば、学習効果はさらに倍増するでしょう。これは、教育の世界では、全てに共通することだと思います。それなら、教会の教育も同じような次元で考えて良いのでしょうか。違います。教会における福音の教育とは、福音そのものの本質によってこそ規定されます。
 福音は、いつでも「人と人との交わり」を生み出します。しかも福音とは、生み出された交わりの中でこそ体得されるものです。もともと福音を教えるとは、恵みを「分かち合う」ことに基づきます。教会の教え、それは、共に聴いてくれる相手(仲間=友)との生きた係わり(共に生きる)の中でこそなされることなのであります。たとえば伝道者養成教育は、教える人と学生同士との生きた関係、まさに生活を共にするような関係で成り立つものなのです。効率よく、神学生を生産することはできません。時には、喧嘩したり、反発し合ったりすることが、福音を知り、自分自身を知る道となるのです。
 たとえば使徒パウロは教える人ですが、彼は孤独で福音を教えていたのではありません。彼の手紙は彼個人の著作であると思います。しかし、ほとんど常に「パウロ・シルワノ・テモテ」からあなたがたへと書き送りますと書き始めております。つまり、パウロの福音、彼が「私の福音」とさへ表現する福音は、福音の恵みを響かせ合う交わり、この「交わり」の中で、捉えられ、深められて行ったのであります。
 日曜学校の活性化、再生においてこそ、この福音が生み出す交わり、共同体をどのように築くのか、子どもらとの活き活きとした交わりをどのように作るのか、そこに大きく掛かってくるとものと思います。日曜学校に集う子どもが極端に減少している今日の危機的な状況をお互いに心から案じております。しかし、一人一人と深い関係を結ぶことは、むしろ容易になるのではないでしょうか。もしかするとこの状況からこそ、日本の教会学校、日曜学校、日本キリスト改革派教会のそれが再生し、新しい充実した青少年伝道への取り組みが生まれるためのチャンスになるかもしれません。というより、チャンスとしなければならないと思います。
 教師として立てられた私共がまず、神と人(私)との間に起こった響き合い(愛・喜び・恵みの響き合い)を豊かに経験することが求められます。そして、その響きが、生徒(分級)との間にも共鳴し、生徒どうしの間にも共鳴が広がることを信じます。
 分級が(もちろん日曜学校全体でもかまいません)、主イエス・キリストを中心にした交わりとして育まれる。子どもどうしで、信仰を励まし合い、祈り合い、教師のために祈る・・・。「響きをたてること」「交わりを築くこと」をはっきりと自覚的に目指して、日曜学校の奉仕に取り組んでまいりたいと願います。そうなりますと、それは、いわゆる日曜「学校」と言うような、学校制度のようなあり方とは、異なって来るのではないでしょうか。呼び方そのものはどうであっても、少なくとも、現代の学校のイメージとは、全くかけ離れたものとなると思います。
 この辺りの事は、このわずかな時間で議論することはできません。しかし、今まさにそれを、正面から、牧師と一緒に日曜学校教師会で学び、協議して良いことなのではないでしょうか。もちろん「○○教会子ども教会」というような名称に変更しなくても、日曜学校の目標を鮮明にすることは大切かと思います。学校ではなく、「子どもの教会」のイメージ、それが、福音が生み出す交わり、カテキズム教育が生み出す交わりなのではないでしょうか。ついでに申しますと、『子どもカテキズム』のもう一つの特徴は、教会論であります。問3で、教会生活、教会の交わりと共に生きることをおさえてありますし、問34でも、教会についてきちんと触れております。ウエストミンスター小教理問答では、はっきりと教会論的な視点を押さえる事においては不足があるという私自身の考えがあってのことであります。
 日曜学校の活性化。それは、単に多くの子どもたちが集うということを意味しておりません。いへ、もちろん、先ほども申しましたとおり、一人でも多くの地域の子らを、さまざまな手立てで、主イエス・キリストの御許に招かねばなりません。しかし、それでも、私共の日曜学校の目標は、福音の力がそこで発揮され、「救い」と「成長」、そして、神との交わり、人との交わりつまりの「信仰共同体」がそこに起こることこそが目標であります。この目標をしっかり定めなければなりません。そのためには、日曜日のわずか一時間では極めて困難であろうと実感致しております。皆様も同じような、苦闘を重ねられているかと思います。しかし、目標をしっかりと定めるなら、相応しい知恵や方法が与えられるのではないでしょうか。どうぞ、子どもらの信仰の共同体を育てるという大きな、そして委ねられている私共の使命をよりよく果たしたいと心から祈り願います。

A子どもの教会を育てるために、教師の心得
 日曜学校の教師は、大変な奉仕です。誠実に準備をし、担任する子ども一人一人のために祈りを欠かさないならば、これは、おそらく長老の職務に匹敵するような大変な奉仕となるのではないでしょうか。(ついでに申しますと日曜学校教案誌にも既に記しておりますが、この教案誌は、単に教師の準備の時間、労力を軽減させたいという狙いをもって発刊したのではありません。むしろ、牧師をはじめ、教会員全体の日曜学校への取り組みをさらに盛んにしたいとの思いからであります。)
 しかも、この時代の日曜学校の奉仕は、労多くして実りをじかに見ることは難しいと思います。しかしどうぞ、むしろ少ない生徒であればあるほど、今こそ、大切なその子の救いと成長、信仰共同体の交わりの育成のために心を込めて祈り、取り組んでください。そしてその時には、子どもは、単なる生徒ではなく、信仰の歩みを共にする兄弟姉妹、仲間として見る眼差しが与えられるはずです。

 分級で、「福音の響きをたてる」「共鳴しあう」交わりを育てる為には何に心掛けたら良いのでしょう。
 1) 心を柔らかくすることです。
 心を柔らかくすること。「変わろうとするのを止めたとき、その時は生きようとすることを止めたとき」。ある修道士のことばです。変わろうとする、改革されることを拒んだとき、霊的には死んでいると言うのです。神学校で一人の級友が、コーラスの授業のときに、屈伸体操をしていました。「何やっているんだ」「体をほぐさないと声が響かないのだ」彼は、自分の体をほぐして(=楽器につくりかえて)から歌い始めるのです。音大卒の友人です。声を響かせる為には、柔らかな体。福音を響かせるには、柔らかな心です。神に向かって柔らかくなりましょう。いえ、福音を正しく聴けば聴くほど柔らかく「される」はずです。いつも、子どもに先立って、福音(説教)の良き聴き手になって下さい。神の恵みの響きに打たれてください。そのとき、柔らかくされるのです。

 分級で、「福音の響きをたてる」「共鳴しあう」交わりを育てる為には何に心掛けたら良いのでしょう。
 2) 心を開くことです。
 福音の語り手の特徴は、相手に心を開く態度を持っていることです。相手に向かって心開かないで、福音の語り手にはなれません。そして、福音にはそのような語り手の心を神と人へと開かせる力があるのです。福音を語る、それはあくまでも福音を語るのであって自分のことを語るのではありません。しかし、興味深いことに、ルカは使徒言行録で、三度も使徒パウロの回心の経験(それは迫害の事実でもある)を記しました。パウロもまた、その手紙のなかで自分自身をさらけだしております。使徒ペトロもまた、自分の裏切りの恥をさらしながら、キリストの証人として生きたのです。福音の力によって心を開かせて頂くときには、聴く側にも心が開かれることが起こるのです。そのときに「福音の響きをたてる」交わりが形成されるはずです。

 3) 子どもを信仰の仲間として見ることです。
 勿論、子らはあくまでも生徒であります。私共は日曜学校教師としての自覚をもって、自ら学ぶ人の模範、キリスト者の模範たろうと努め、教える内容を自ら体得する修練と教える技術を磨く努力を怠ってはなりません。しかし、私共の教会理解は、ローマ・カトリック教会の教会観のように、教える教会(聖職者集団)と教えられる教会(信徒)とに分けて考えません。全ての信徒が祭司として神と人との前にまかり出ます。
 たとえば、牧師はまさに御言葉の教師でありますが、信仰の仲間と共に生きることで、信仰が支えられ、職務を果たしえます。そしてそれは、日曜学校の教師もまた同じ体験を与えられると思います。子どもから多くを教えられ、励まされることであります。信仰の交わりをつくるためには、一緒に信仰を生きる仲間として、彼ら彼女らを見る眼差しが大切です。子どもらが契約の子であれば尚更のことです。そのときこそ、深い絆で結ばれるのではないでしょうか。そのような日曜学校教師のあり方、それこそが私共が目指す教師像であります。また、毎主日の子どもとの交わりの姿、分級の姿なのであります。この目標を明確に見据えてお互いが自覚的な修練を求めて行くなら、そのような分級、日曜学校が営まれるのではないでしょうか。
 生徒を信仰の仲間として見ることは、契約の子の小学校上級科生と中学科以上の子どもとの関わりにおいては、ほとんど不可欠なことと思います。四日市教会の伊藤治郎長老、嘉成頼子姉の指導する中学科では、「聖書深読法」と言う方法で、子どもたちと聖書から御言葉を聴き取るプログラムをしておられます。第3号には、中会の日曜学校教師研修会夏の講座でなされた報告が記されております。「聖書深読法」そのものについてここで解説するいとまはありません。私も実際に高校生たちとその方法で聖書を読む姿を拝見しました。そして、その姿を見ながら改めて思わされましたことは、ここで何度も繰り返し提言させていただいております、子どもの信仰共同体、交わりの姿がその方法でなされていると言うことであります。子ども達がお互いの聖書の読み方、聴き取った御言葉の恵みを分かち合うとき、まさに、それこそ私どもが目指している、日曜学校、子ども教会の姿であります。カテキズム教育と御言葉を直に読む学びとは、基本的に同じことを目指しているわけであります。
 聖書を子どもらとどのように読むのか、そのための試みは、この方法に限らずおそらくいくつでもあることでしょう。しかし、繰り返して申しますが、いずれの方法でも、それが分級でなされるときに求められる事は、教師と子どもらが御言葉を囲むこと、同じ地平に立って御言葉から聴き取ろうとすること、そのようにして、福音のみが作り出し育てる交わりが形成されて行くのではないでしょうか。その為には、必然的に教師が心を柔らかくし、開き、子どもと共に御言葉によって生かされる喜びにあずかろうとする姿勢が不可欠となるのであります。そのときには、教師でありつつ、子どもと心を響きあわせること、通い合わせること、御言葉の絆で結ばれることも起こるのであります。

結語
 教会に幼子、小学生、中高生、学生が少ない状況を私どもは今、主イエス・キリストと共に嘆きたいと思います。神の嘆き、神の流される涙を、私共のそれとしたいと思います。本来、最も伝道しやすい世代であり、彼らが幼いときから、若い時からしっかりと福音を学び、訓練を受け、教会の将来を担うべき世代であります。その子らを何とか教会に取り戻すため、皆さんと祈りを集めたいと思います。皆さんと力を結集して、それぞれの日曜学校の活性化、成長のために励みたいと思います。日曜学校教案誌は、まさにそのために発行されました。どうぞ、共に献身を新たにしましょう。今、ご一緒に祈りましょう。

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