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【礼拝説教】  「賛美の歌を奏でる」  辻 幸宏牧師



  詩編149編 (新共同訳聖書)

149:1 ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。
    主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。
149:2 イスラエルはその造り主によって喜び祝い
    シオンの子らはその王によって喜び躍れ。
149:3 踊りをささげて御名を賛美し
    太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。
149:4 主は御自分の民を喜び
    貧しい人を救いの輝きで装われる。
149:5 主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み
    伏していても喜びの声をあげる。
149:6 口には神をあがめる歌があり
    手には両刃の剣を持つ。
149:7 国々に報復し
    諸国の民を懲らしめ
149:8 王たちを鎖につなぎ
    君侯に鉄の枷をはめ
149:9 定められた裁きをする。
    これは、主の慈しみに生きる人の光栄。ハレルヤ。


T.賛美は、喜びの歌
 今日は、オルガン奉献礼拝に集って下さり、心から感謝いたします。私たちが神さまを礼拝するにあたって、主を賛美するためのオルガンは無くてはならないものです。
 では、私たちはどの様に主を賛美するのか、与えられた御言葉から聞きましょう。詩編146〜150編はハレルヤ詩編と呼ばれ、最初と最後に「ハレルヤ」と語られています。「ハレルヤ」とは「主を賛美せよ」という意味です。「賛美」には、「誉め讃える」、「感謝する」という意味があるのであり、私たちは、私たちが誉め讃える方である主なる神さまとの関係を確認しなければならないのです。
 この詩編は、イスラエルの民がバビロンに補囚の民として連れ去られた後、約束の地に帰還した後に歌われたと言われています。つまり詩編の作者たちは、イスラエルの民がエジプトの国において奴隷状態にあった時、主がイスラエルを救い出して下さったことを伝え聞き、さらに自分たちもまた、主によって囚われの身から救い出されたのです。従って、彼らが主を賛美するのは、主が生きて働いておられ、彼ら自身が主による救いに与り、主によって生かされているからです。ですから、主を礼拝し、主を賛美するのは、主による救い、主によって生かされていることの感謝の喜びがあるからです。だからこそ、詩編の作者は、主の慈しみに(主の愛に)生きる人の集いで賛美の歌を歌えと語るのであり(1)、喜び祝う歌、喜び踊るものとなるのです(2)。
 奴隷・補囚という苦しみ、罪の奴隷・死から解放していただいた者として、神の子として生きることが出来る者としての喜びがはじけるのです。そこで太鼓や竪琴、私たちの教会ではオルガンが用いられるのですが、楽器が演奏される時には、人々が喜びの歌を奏でるに相応しく、主なる神さまへの感謝をもって、喜びをもって演奏される必要があります。

U.賛美は神の御国を覚えて
 続けて詩編の作者は、イスラエルを救って下さった主なる神さまに目を向けます(4)。主がなぜ、イスラエルの民を救われ、神の民として下さっているのか? それは、創造者、天地万物の統治者である主が、私たちを罪の故に滅びに落ちることを悲しみ、そこから救い出されることを喜んでおられるからです。ですから、私たちが主による救いに感謝しつつ、礼拝し、主に賛美の歌を歌う時、それは同時に、主なる神さまもまた喜んでおられるのであり、神の御国における賛美とハーモニーしているのでだと思います。賛美はハーモニーであり、一人だけで突出する者ではなく、全体の調和が求められますが、神の御国ともハーモニーでなければならないのです。そうすれば、私たちの賛美の仕方も関係してくるのです。私たちの感情に訴え、興奮しながら歌うようなものではなく、一方的に私たちの思いを歌うものでもないのです。会衆の調和、神の御国との調和が求められるのです。このことは、私たちが地上で神さまを礼拝し、賛美を奏でているだけではないことを意味します。つまり、私たちが神さまを礼拝し、神さまに賛美を奏でることは、常に、私たちが約束されている神の国、天国を意識したものとなり、私たちは神の御国における全てのキリスト者と共に神を賛美する時が与えられるのです。
 以前、石丸新先生が大垣に特伝で来て下さった時、大垣伝道所の礼拝に「天国の姿を見た」とお語り下さいました。それは、吉村美智子姉がベットに横たわりながら、一緒に礼拝に集っていた姿を見られてのことです。その吉村美智子姉が召されて、今日で丁度2年を迎えました。天国では、地上において病気や様々な障害を持っている者、迫害を受け傷ついている者、奴隷とされている者、貧しい者、虐げられている者、そして異なった国、異なる民族民族、異なった言葉を語る者、肌の色が異なる者、その全てが一つとなって、主に救われたことを感謝し、誉め歌を歌うのです。そこには、アダムに始まりすでに地上の生涯を終えたすべてのキリスト者も集い、今生きている者、さらにこれから神さまを信じようとする者、これから生が与えられ、神さまに召される者たちも含まれているのです。
 この天国における神礼拝こそが、主なる神さまによって創造された人間の最も祝福された状態なのです。だからこそ、私たちが神さまを礼拝し、神さまに向かって賛美をする時、神の御国を意識したものとなり、それはおのずと、天国の姿を先取りしているのです。

V.最後の審判を見据えた神礼拝
 しかし、詩編の作者は、6節の後半から9節にかけて、物々しい言葉を語ります。イスラエルの民が、主によって滅ぼされ、バビロンに補囚の民とされたのは、自分たちの手で武器を持ち、自分たちの力を誇ろうとしたからでした。そうしたことを、主は望まれるのでしょうか? 実際、バビロン補囚から帰還したイスラエルの民は、極僅かでした。武器をもって敵に攻め上ったとしても、自分たちの力では太刀打ちできないことを理解していたのです。つまりここで主が求められることは、主を信じることです。
 士師記7章でミディアン人を前にしたギデオン率いるイスラエルは、主によって32,000人いた民から300人を選び出されます。そしてこの300人によって、主は12万人のミディアン人を渡されたのです。つまり自分の力を信じるのではなく、主の御力を信じることです。
 そして、今、主を賛美する私たちは、既にキリストの十字架による御業が成し遂げられているのです。そして復活の主イエスは、私たちに地の果てまで福音を伝えることを委ねて下さっています(マタイ28:18-20)。主の裁きは、最終的な裁きである最後の審判に委ねればよいのです。私たちは、その中にあって、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることが、主イエスによって求められているのです(マタイ5:44)。だからこそ、私たちは、私たち自身が武具を身につけ戦うのではなく、むしろエフェソ6章で語られるように、信仰の武具を身につけ、主の裁きによってもたらされる神の御国を仰ぎ望みつつ、日々、主を礼拝し、主に賛美を奏でて行きたいものです。

                                              (2007.5.27)
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