【ヨハネの手紙一 連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「油注がれる祝福に生きる」  ヨハネの手紙一 2章26~29節



ヨハネの手紙一 2章26~29節

  2:26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
  2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。



序.
 今年の標語はすでに確認していますように、「いつでも霊的に判断し、霊的に語り、霊的に行動しよう」です。私たちはキリスト者であり、罪が赦され、神の子とされています。

Ⅰ.私たちは神の子である
 私たちを救いに導いて下さった神さまは、「安息日を覚えて聖とせよ」と命じられ、主の日(日曜日)に神さまを礼拝することを求めておられます。しかし私たちは日曜日に礼拝に出席している時だけキリスト者ではありません。キリストの十字架の贖いによって罪が赦され救われ、神さまの子ども・所有物とされたのであって、家庭・職場や学校でも、サークルや趣味の場・地域の交わりにあっても、キリスト者です。子どもは親の教えを守ることが求められるように、常に神さまの子どもとして相応しい生活が求められます。そして神さまを信じていない人々とは、ものの考え方・判断が、異なってくるのです。これが「信仰生活」です。「生きる」とはキリスト者として、神の恵みに生きるのであり、主の御言葉に聞き、主の御意思を知り、行動することがキリスト者です。
 しかし私たちは、教会の中、キリスト者同士の交わりだけで生きることは出来ません。キリスト者を惑わし、攻撃・迫害してくる人々もいます。日本は神さまを知らない人々の方が圧倒的多数で、キリスト者はわずかです。神の御言葉に従って生きようと心がけても、知らず知らずの内に神さまから離れ、世の規準で物事を判断し生きてしまいます。私たちキリスト者は、意識して、そうであってはならないのだ、神さまの御言葉に従い、神さまの求めに従った判断を行いつつ、信仰生活を営んでいくことが求められています。

Ⅱ.聖霊の力を信じよ!
 しかし、私たちは弱く罪深いため、誘惑に流され、惑わされ挫けてしまいます。信仰の戦いが強いられます。しかし自分一人で頑張ってもいけません。むしろ誘惑に負けてしまう自分がいることを認めなければなりません。神の御言葉に聞くことなく、神さまを忘れ、世の人々と同じ生活を行ってしまう自分を知らなくてはなりません。こうした弱く、神さまの御前に罪深い私たちを、神さまは、キリストの十字架の贖いにより、一方的に救い、神の子どもとして受け入れて下さったのです。私たちは、一生懸命になること以前に、自らの弱さを受け入れ、主の御前に自らの罪を悔い改め、一方的な救いに感謝することです。
 神さまは私たちに油(聖霊)を注いで下さいました(27)。私たちは、キリストを直接目で見ることはできません。しかし生きて働く主なる神さまの霊であられる聖霊は、今も私たち一人ひとりに働いて下さっています。つまり、私たちを惑わす者・サタンの力・迫害者を私たちは恐れますが、それは人間的な恐れです。自分で戦わなければならないと思うからこそ恐ろしいのです。防御しようとするから攻撃的になるのです。神さまの救いに入れられている私たちには、御子から油注がれた油である聖霊なる神さまが共にいて下さいます。聖霊の力を信じない・聖霊を信じ切れていないから、恐れ・構え攻撃的になるのです。
 私たちが信じている父なる神、御子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる三位一体なる神さまは、全知全能です。力を持っておられます。このお方が共にいて下さるのであれば、何も恐れることはないのです。サタンは神さまのお許しがなければ働くことが出来ません(ヨブ記1,2章)。神さまが私たちを守って下さいます。聖霊なる神さまが共にいて下さることをはっきりと確認し、信じる時、私たちはどこでも恐れる必要はないのです。
 すでにキリストは、十字架の死と復活をとおして、罪に打ち勝ち、勝利を遂げて下さったのです。神の子とされることは、キリストに属し、世において恐れるものはないのです。
 そして神さまは、私たちの信仰を最後まで守り、確実に神の子として、天国での安住まで導いて下さいます(聖徒の堅忍:ウェストミンスター信仰告白第17章)。

Ⅲ.聖霊派に対する注意
 ただ私たちはここで一つ注意しなければならないことは、聖霊にすべてを委ね、聖書から離れることです。聖霊派の人々は、聖書も用いますが、重要視しません。むしろ祈り、聖霊が宿ることを求めます。異言が与えられることが、信仰の成長の証しと考えます。つまり彼らの論理からすれば、神の啓示は、主イエスと初代教会までは、聖書においてされまされたが、それ以降は聖霊がすべてであると考えます。しかし聖霊のみに頼ることは、危険です。主の言葉から離れた聖霊の宿りは、個人的・主観的な信仰になります。
 私たちは御父・御子・御霊なる三位一体なる神さまを私たちは信じているのであって、御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。私は前回、聖徒の交わりが大切であることを語りました。信仰は個人的なものではなく、信仰共同体・聖餐共同体です。御子がお示し下さった聖書の御言葉が規範として求められます。
 また御子を信じることは、肉となったイエス・キリストの地上におけるすべての御業を受け入れるだけではありません。御子を受け入れるとは、言(ロゴス)をも受け入れるのであり、御言葉としての聖書を受け入れるのです(ヨハネ1:1~5、14)。聖書を横においておいて、聖霊にのみ委ねることを、私たちはしません。だからこそ、ウェストミンスター信仰告白第1章「聖書について」5節では、次のように告白します。「聖書の無謬の真理性と神的権威に対するわたしたちの完全な納得と確信は、御言葉により、御言葉と共に、わたしたちの心の中で証しなさる聖霊の内的御業による。」
 私たちは、キリスト者として「いつでも霊的に判断し、霊的に語り、霊的に行動しよう」とする時、日々、御言葉である聖書に聞きつつ、聖霊により、主が共におられることを忘れてはなりません。御父・御子・御霊なる神さまは、生きて働く神さまであり、力があります。自分で何とかしようとするのではなく、常に、祈りつつ、聖霊によって答え、判断が与えられ、神の守りがあることを信じて、日々、歩み続けていきましょう。
                                     (2013.1.13)

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