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  まえがき

 先に、私たちの委員会は、『宗教と政治に関する問答集』1980年刊、安田吉三郎委員長)というタイトルをもった小冊子を、提出いたしました。その内容は、1.教会と国家、2.政教分離、3.靖国神社問題、4.天皇制、5.日本の伝統と習俗、というものでした。それは、靖国神社法案国会提出という状況を意識して出された「創立三十周年記念宣言」を踏まえ、教会と国家の関係を具体的に捉え、実践していくための手がかりを与えようとする問答でした。またその問答は、先の天皇の代替わり(ことに「大嘗祭」をも射程におさめ、わが教会内において有効な働きを担ったと思います。八十年代は、日本社会が戦後政治の総決算の名のもとに急速な右旋回を始めた時です。当時、教会員がそれぞれの生きる場で日毎に試みられた「宗教と政治」の問題に対して、「素朴な疑問を想定し、これに簡潔に答える」問答集の作成は急務だったと思います。
 しかし、先の「問答集」発行後、政教関係をとりまく状況が複雑かつ多様化しました。また政教分離の闘いの教会的背景を知らない世代に、その闘いの意義を正しく伝え、聞いを継承していくために、原則論から実践の問題まで、きちんとした説明をする必要に迫られました。そのために、およそ半世紀にわたる「世と教会」関係資料、そして「声明」文や「要望書」の主だったものを採録し、論点を整理し、戦後五十年以後のわが教会の聞いを継続していく決意を改訂問答集において表明することにしました。これが、改訂版を作成する意図です。先の問答集は、教会役員にのみ配付したものでありますが、今回は、教会員にまで届くように出版いたします。
 今回の問答集は、六項目に分けて、通し番号を付けていますが、構成としては、「一 教会と国家」、「二 信教の自由と政教分離」、「三 宗教と習俗」、この三つを柱にして、あとの三つ、「四 天皇制」、「五 靖国神社問題」、「六 戦争と平和」、を各論とします。つまり各論としての「習俗」問題ではなく、「宗教と習俗」の項目を、「教会と国家」、「信教の自由と政教分離」との関わりの中に捉えようというものです。「習俗」をめぐる問題が、津地鎮祭違憲訴訟最高裁判決以来、教会と国家、政治と宗教の間に無原則に割り込んできたために、各論の一つとして押し込めるには無理が生じましたし、それ以上に、「教会と国家」、「信教の自由と政教分離」との連関の中に位置づけることによって、政教関係を正しく捉える必要のあることを委員会では考えています。そこで、今回の『問答集』は、『国家と宗教に関する問答集』といたしました。この『問答集』によって、「真の救いの自由と喜びを与える改革派信仰」(四十周年宣言)に生きる私たちが、具体的に生きる場を構築するための手がかりをもつ指針となるよう心がけました。
 さらに、先の『問答集』では、日本国憲法の基本理念のうち、基本的人権の擁護を貫くことに関し、合意があったと思います。今回はそれを踏まえながら、憲法の「平和主義」にまで踏み込んで問答していることに特徴をもたせています。新たに、この項目を加えたのは、ここに鋭く突きささるようなかたちで、政教関係があらわにされているからです。先の『問答集』の後記に、「天皇制・戦争や平和をめぐる諸問題など今日避けることのできない、しかも微妙な面をもつ事柄に関しても、大会全体のコンセンサスが徐々にでも形成されていくことを委員会としては願っている」と記しました。それを引き継いでのことでもあります。
 私たちの『教会と国家にかんする信仰の宣言』は、「教会は、人々の間に正義と平和と自由を増進する」 こと、また「教会の戦いの武具は、究極的には、この世のものではない。教会は、……キリストの義にもとづく自由と、平和の福音を公に証言する」こと、そして「キリストは、……すべての権力と権威を打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される」と宣言しました。日本国憲法の前文および第九条の「平和の思想」は歴史における人類の所産であり、「平和の福音」と混同してはなりませんが、その内容と共に究極的には「宣言の思想」に適うものであると考えます。すなわち憲法前文は、「いずれの国家も、自国の事のみに専念して他国を無視してはならない」と戒め(隣人愛)、第九条は武力という権力の放棄を究極の理想(剣の権能の滅び)としています。特に第九条は、制定時においては非武装平和を目指すものでありましたが、朝鮮戦争以後、今日のPKO論議に至るまで、実に多様な解釈が与えられてきました。教会員が、現実には、多様な立場をとりうるとしても、「三十周年軍言」に拠りつつ、日本国憲法制定時の平和主義の理想を追い求めることを、私たちの委員会は、願っています。
 今回の問答集改訂作業を通じて、創立以来の、私たちの教会における政教関係についての共通の理解を得てゆきたいものと願っています。『問答集』作成、すなわち問を発し、その問いに答えていくわざは、決して先が見通せているからではありません。教会を取り巻くさまざまな「問題」が、いま正に解答を与えられねばならない「問題」として、解かれねばならない「問題」として、いま私たちの前にあります。何度も繰り返し、問い直し、答えていくことで、私たちのうちに具体的に生きる場があらわれてきます。御言葉に聞き、「創立宣言」以来の、「信仰の宣言」に拠りつつ、それら諸問題を、生きた応用問題として微力なりとも解いていくことが求められています。この問答集が、そのように問答しっつ生きていく者によって、具体的な実践の場、生活の場において担われつつ、その真実をあらわにすることを切望します。

 1996年5月3日

                        大会・世と教会に関する委員会
                           委員長  根来 泰治





 一 教会と国家


問1 教会と国家の関係について説明してください。
答 教会と国家は、どちらも、あがない主キリストの主権の下に立てられている制度です。
 確かに、国家の政治形態は、人間の意志によって決定されますが、「地を従わせよ。……支配せよ」(創世記一28)との神の命令を正しく行えなくなった人間は、神と人との関係を回復してくださるイエス・キリストを必要とします。神は、イエス・キリストの受肉、十字架と復活と昇天、着座により、天地を和解させ、かれを万物の上にかしらとして教会に与えられました。
 そこで、キリストにあって、天地のあらゆる権能は行使されています。したがって、たとえ国家が自覚していないとしても、国家権能の起源もまたキリストから来るというのが、私たちの信仰です。すなわち、キリストが教会のかしらであられると共に、国家のかしらでもあられるので、教会と国家は共にキリストに対して使命を果たす責任がある、という意味で関わりをもつのです。
                        (教会と国家にかんする信仰の宣言)


問2 それでは、教会と国家の権能の違いは、どのような点にあるのでしょうか。
答 主キリストがその一般恩恵のうちに国家を立てておられるのは、国民の福祉を増進し不正を抑制するような立法・行政・司法において御自身に仕えさせるためです。それに対し、主キリストがその特別恩恵のうちに教会を立てられたのは、みことばの宣教・礼典の執行・愛によって働く信仰の生活において御自身に仕えさせるためです。
 したがって、国家には剣の権能が与えられているのに対し、教会に与えられている権能は霊的なものです。そのように、キリストから教会と国家に託されている権限は別個のものですから、互いの領域を侵害することは許されません。
                   (教会と国家にかんする信仰の宣言一、二、三)


問3 教会が国の政治に関与してもよいのでしょうか。
答 教会はすべての人のために願いと祈りと感謝をささげ、特に権威の座にある者のためにとりなしをするという使命をキリストから託されています。ですから、そのような権限の性質上、その権限を行使するうえで、国の政治に関与するのです。
 国家がキリストから託されている務めは、国民の福祉を増進し不正を抑制することです。また、特に宗教との関係について、国家はあらゆる国民の諸権利を公平に守り、公共の平和を確立する義務があります。したがって、国家がその務めを果たさず、かえって絶対的権能を欲しいままにして神格化しようとする時、教会は、国家を見守る者としての預言者的務めを果たし、神のみ言葉に基づいて、公に主のみこころを宣言するのです。
 そのように、教会の国家への関わり方は宗教的・倫理的な事柄に関してであり、その取るべき手段も基本的にはこの世の武具ではなく、霊的なものです。
                    (教会と国家にかんする信仰の宣言 二、三)


問4 それでは、キリスト者の政治関与は、どう考えるべきでしょうか。
答 そうですね、ご質問のとおり、この問題を考える時、教会とキリスト者の両者の関係と相互の区別を心得ておかなくてはなりません。
 教会はもっぱら霊的な務めに携わりますが、教会の会員であるキリスト者は、国民の一人として国の政治に関与する義務と責任があります。そこで教会は、政治団体を組織したり育成したりしませんが、御言葉の宣教において、あがない主イエス・キリストは人間生活の全領域にわたってわれわれの主であられることを語り、教会員がキリストのしもべとして、政治・経済・文化その他の社会活動や社会奉仕に参加するよう教えます。
 したがって、キリスト者は、主のゆえに国の法律を尊び、納税の義務や選挙権の行使などあらゆる法定義務を果たすため、常に最善を尽くす姿勢をもつべきです。
                    (教会と国家にかんする信仰の宣言 二、三)


問5 キリスト者の戦いの武具は何でしょうか。
答 教会の武具はもっぱら霊的なものであるとすると、キリスト者の武具は、では何かという問いですね。教会は「政治・経済・宗教などのあらゆる形の専制にたいし、とくにそれが全体主義的になる時」、み言葉に基づいて「それに公に抗議」します。しかし、「さらにキリスト者は、国民として、イエス・キリストの主権を奪おうとする政府や権能機関にたいしては、義務を拒否することばかりか、抵抗することをも神のみことばによって求められる」のです。
 そこで、キリスト者の戦いの武具は、教会よりもさらに広く考えられることになります。集会参加、デモ、署名、裁判などによる抗議、拒否、抵抗の意思表示は、教会よりもキリスト者が直接とる手段でしょう。教会はそのような戦いを、み言葉と祈りによって判断しつつ、支えるのです。
                   (教会と国家にかんする信仰の宣言 三3・4)


問6 他教派、他宗派、また、思想的に異なる人々と共闘できるでしょうか。
答 これにかんして、私たちの教会は、1968年の第23回定期大会において、いわゆる『共闘の論理』というものを確認しました。
 「適切なる独自の運動を展開するとともに、われらの信仰の良心に矛盾しない限り、靖国神社国家護持立法化反対運動の推進に限って、他の団体とひろく協力すること」という建議案の提出・承認がそれです。もちろん、当時は「靖国神社国営化法案」の立法化反対のための措置でした。しかし、この考え方は、今でもさまざまな運動を展開するに当たって有効です。
 したがって、日本キリスト教協議会(NCC)、福音派、仏教、神道、無神論者、諸政党、その他どのような立場の人とも、共通の目的にかんする限り共闘できるのです。ただし、「われらの信仰の良心に矛盾しない限り」という点を覚えておきましょう。
                            (第23回定期大会記録)


問7 教会の公的な抗議声明や反対声明には、どんな意義があるのですか。
答 これまで私たちの教会は、数々の抗議声明や反対声明を出してきました。これにはどんな意味があるのか、どれはど有効なのかということですね。
 問5で触れたように、教会は「政治・経済・宗教などのあらゆる形の専制にたいし、とくにそれが全体主義的になる時」、み言葉に基づいて「それに公に抗議」します。そこで、声明文の宛て先は、まず第一に、内閣総理大臣を始めとする政府機関となります。次に、私たちの公的声明を知っていただきたいので、キリスト教系を始めとするマスコミ関係にも送ります。
 政府に送っても読んでもらえるのだろうかという懸念があるかと思いますが、問6で触れたように、『共闘の論理』が有効に作用しますと、私たちの声を、政府は無視し得なくなるのです。また、教会のこのような預言者的な働きは、為政者がそれに耳を傾けないとしても、聖書が教えるように、それ自体重要な意味があるのです。国民としての教会員は聞いているからです。
              (巻末の「大会決議関係」参照、三十周年宣言 二、三)


問8 いわゆる「ヤスク二問題」とは何ですか。
答 カタカナで「ヤスクニ問題」というと、「靖国神社国営化問題」のことだけでなく、関連する諸問題を含めた広い意味をもって使われることが一般的となりました。
 1960年代後半に「靖国神社法案」が国会に提出された頃は、「ヤスクニ問題」とはほとんど「靖国神社問題」でした。しかし、法案が廃案になり、推進派も闘いの場を国会から広く国民生活へと移すと(「英霊にこたえる会」発足など)、闘争の質は当然文化闘争的になり、以後さまざまな問題が「靖国神社問複」の延長として「ヤスクニ問題」として意識されるようになったのです。
 たとえば、天皇・首相・閣僚による靖国神社公式参拝、建国記念の日、元号法、戦没者を追悼し平和を祈念する日、天皇制、君が代・日の丸、そして、違憲訴訟として争われているさまざまな問題、また「町のヤスクニ」問題などなどです。


問9 教会が「ヤスク二問題」に関わると、伝道のさまたげになりませんか。
答 けっして、そんなことはありません。むしろ、伝道は祝福されるのです。しかし、そのような心配が出てくる背景を考えてみましょう。
 第一に、戦没者の慰霊、天皇制、君が代・日の丸、元号使用など、多くの国民が支持しているものに反対すると、キリスト教は受け入れられなくなるのではないか、という心配があるかと思います。しかし、世界史におけるキリスト教の進展をふりかえると、民族の思想に受け入れやすいように妥協した時はけっして伝道は祝福されず、かえって避けられない課題を受けとめて真理を語った時、伝道はおおいに祝されたのでした。
 第二に、「ヤスクニ問題」にばかり関わっていると、教会本来の活動がおろそかになるのではないか、という心配があるかと思います。確かに、教会は、伝道や信徒教育に多くの時間と労力をついやすのですから、“「ヤスクニ問題」にばかり関わっている”ということはできません。むしろ、伝道や信徒教育に有効に「ヤスクニ問題」が関わるように、バランスをとりたいものです。教会活動における「ヤスクニ問題」は、労力や時間の配分の問題ではなく、不可欠の課題だからです。





 二 信教の自由と政教分離

問10 信教の自由とは何ですか。
答 信教の自由とは法的な概念です。積極的には、国及びその機関が、個人および宗教団体(教会)に、信仰を公に表明(告白)する自由、礼拝する自由、布教する自由、団体を組織し宗教活動を行う自由等を、権利として法的に認めることを言います。消極的には、個人が国及びその機関から、宗教的な儀式・行事等への参加や、宗教教育を強要されないことを、国民の権利として法的に認めることを言います。
 今日では、信教の自由は人権の中でも最も重要なものの一つとして、人権宣言の花形の一つに数えられ、各国憲法のひとしく保障するところとなっています。私たちも、信教の自由こそ人間尊重の中核をなすものとして、これが聖書の教えにも適うことを主張します。すなわち、人は「神にかたどって創造され」ましたから、「神のみがからだと良心の主であられる」(創一27、三十周年宣言 三3)からです。
 しかし、こうした信教の自由の概念は、はじめからどの国においても認められていたわけではありません。また、一様に認められてきたわけでもありません。最初は西ヨーロッパ、次にアメリカ、そして、日本をはじめ世界各国へと、歴史的に徐々に認められてきました。

問11 では、信教の自由は、歴史的にどのように認められてきましたか。
答 信教の自由が権利として法制度において最初に認められたのは、16世紀の西ヨーロッパ世界においてです。ルターが宗教改革をはじめたとき、カトリック教会は世俗権力と結びついてヨーロッパ社会を一元的に支配していましたので、別個に独立した教会を立てるには、現実にはどこかの世俗君主の保護を受けないと不可能でした。ルターは、一領主(ザクセンの選帝侯フリードリッヒ)の保護を受け、ドイツにおける領邦教会体制を確立しました(注1)。
 やがて教派の多元化による勢力の逆転、あるいは君主の交代によって、「一つの国ではただ一つの教え」の原則の下に、国の宗教が変更されるたびに教派間の争いや不満が生じました。フランスでは、カトリックとユグノーとの間で、宗教の自由を求めて互いに殺し合う宗教戦争にまで発展し、三十年間にわたって争われました。時のフランス王(アンリ・ド・ナヴァール)は、戦争を終結させるため自らカトリックに改宗し、1598年に「ナントの勅令」に署名しました。これによって、両者に信教の自由が認められることになりました。これは最初の近代的な信教自由法といわれますが、いわゆる「寛容令」で、互いの立場を本当は認めたくはないが、平和と共存のために認め合うというものでした(注2)。


問12 信教の自由が法制度として認められれば、本当に信仰の自由は保障されるのでしょうか。
答 ナントの勅令において明らかなように、「寛容」としての信教の自由はすべての教派に認められたわけではなく、大きな二、三の教派に限られて認められるという程度で、少数者の立場にある者には常に不満の残る解決でしかありませんでした。ヨーロッパにおいては、この寛容の枠は徐々に広げられていきますが、その形態は国によって様々です。特に、国教制度を持つかそれに準ずる形で特定教派を優遇し、少数者にも信教の自由を認めるという形態を採る国においては、少数者は常に何らかの不利益をこうむり、自分たちの信じない特定の宗派・教派に有利な政策や税金が用いられるということに対し、怒りと良心の苦痛が常にともないました。ですから、信教の自由を補完するものとして「政教分離原則」が確立しないと、本当に信教の自由は保障されているとは言えません。


問13 「政教分離の原則」は、歴史的にどのようにして確立してきましたか。
答 18世紀になると宗教的迫害等と関係して、ヨーロッパから多数の移民がアメリカにやってきました。そのためアメリカは、多数の国からやって来た多民族による多元的宗教教派から構成される社会で、各教派の利害が常にぶつかり合う社会となりました。ある教派は、植民地政府に自分たちに有利な政策を行うことを希望する行動を現実に行いました。そのため、常に宗教的多数派と少数派との間で争いが絶えませんでした。このような宗教的多元的社会では、単に信教の自由を認めるだけでは少数者の人権は十分に保護されません。事態に苦慮したアメリカ合衆国連邦議会は、1791年に、「合衆国憲法修正十箇条」を制定し、その修正第一条において「連邦議会は、国教の樹立を規定し、もしくは信教上の自由な行為を禁止する法律、また言論および出版の自由を制限し、または人民の平穏に集会をし、また苦痛事の救済に関し政府に対して請願する権利を侵す法律を制定することはできない」ことを定めました。これは、史上最初の明確な政教分離規定であると言われています。


問14 「政教分離の原則」とは何ですか。
答 政教分離とは、信教の自由を補完するための法概念であって、特に、国家の非宗教性・宗教的中立性を確保し、宗教的少数者に対する不利益や、良心の自由に対する侵害から守るために定められた憲法上の原則です。
 その形態は、国によって多少相違がありますが、アメリカ合衆国憲法修正第一条には、政教分離を考える大切な三つの原則が謳(うた)われています。
 第一の原則は、連邦議会による「国教樹立」の禁止です。これは植民地時代、植民地政府が特定のキリスト教教派を公認し、それと結びつくことがしばしば問題となっていたのを、合衆国政府がその関係をきっぱりと断ち切ることを宣言した政教分離規定で、国家の非宗教性・宗教的中立性を目指した規定といえます。
 第二の原則は、「信教上の自由な行為を禁止する法律」制定の禁止です。これは、国家に信教自由保護を義務づけた規定です。これによって、国家はいかなる宗教教派に対しても、平等・公平にその宗教活動の自由を保障しなければならないという意味での国家の宗教的中立性が確保されました。国家は基本的にあらゆる宗教に対して等距離を保ち、無干渉の立場をとることがもっとも相応(ふさわ)しいという考えがここに反映されています。
 第三の原則は「苦痛事の救済に関し政府に対して請願する権利を侵す法律」制定の禁止です。これは、個人および宗教団体がその権利を侵されたと感じたり、他の宗教教派が優遇されていると感じたりすることによって、その良心の苦痛を覚えたとき、その権利侵害に対して国家に救済を請願したり訴えを起こす権利を認め、その権利を国家が制限してはならないという国家の義務規定です。
 これら三つの原則によって、信教の自由は、はじめて権利としての実質を備えたものとなりました(注3)。


問15 日本における政教分離の問題とは何ですか。
答 日本で最初に信教の自由が法的に定められたのは、大日本帝国憲法においてです。しかし、同憲法は、神権天皇制を前提にし、また、同憲法体制の下で、神社神道を超宗教的に扱い神道国教化政策が取られたため、「信教の自由」は、「寛容」の問題として許容されていたにすぎず、その内実は常に空洞化される運命にありました(注4)。
 それゆえ、日本における政教分離の原則は、天皇制の問題と神道国教化の歴史を抜きに論じることはできません。日本国憲法は、この歴史的反省に立って制定されました。ポツダム宣言の受諾によって、神権天皇制が否定され、天皇制による国家神道体制が否定されました。日本国憲法は、天皇の地位を「象徴」とし、「国民主権」を明記し、留保なしの「信教の自由」を認めるとともに、「政教分離の原則」を次のとおり謳っています。
  第二〇条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
   A 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
   B 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
  第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。


問16 政教分離の原則が法制度として確立されれば、それで十分でしょうか。
答  政教分離の原則は、憲法に謳われることによって自動的に不動の原理として確立されるわけではありません。特に、現憲法が「政教分離の原則」とともに「象徴天皇制」 を認めているかぎり、両者のあいだには、常に矛盾と対立が生じ、緊張関係が存在し、政教分離の原則はたえず脅かされる危険性があります。
 天皇は、依然として、皇室の祭司として皇室祭儀に関わっています。また天皇は、自らも祭られる天皇霊を継承するものとしての立場を捨て去ったわけではありません(注5)。そして、天皇霊の継承にとって不可欠の重要儀式とされる大嘗祭を「皇室の伝統」と称し、「公的行為」として現憲法体制においても行われたことは、政教分離原則を実質的に空洞化するものにはかなりません。靖国神社法案においても「解釈規定」によって宗教の範囲を限定する試みがなされましたが、大嘗祭においても、同じく、「収穫儀礼」に根ざした「伝統的皇位継承儀式」という「解釈」を施すことによって、それを天皇の公的行為として行うことは憲法上可能という政府の判断がなされました。
 このような国家による宗教規定の仕方は、本質において、戦前の「神社非宗教論」と何ら変わることがありません。「津地鎮祭違憲訴訟」において現れた「習俗論」や、最高裁判決に見られる「目的効果基準」も基本的にこれと同じ流れにあります。このように日本における政教分離の原則は、国家による宗教規定によって、その実質が空洞化されようとしています。


問17 象徴天皇制と政教分離原則は両立するのでしょうか。
答 現憲法は天皇の地位を「象徴」と定めましたが、天皇の祭祀行為は旧憲法時代の皇室令に準じて、ほとんど変更も加えられないまま続けられています(注6)。
 皇居には宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)があり、宮中祭祀においては、天皇は祭られる神であるとともに祭る祭司の務めを同時に果たすといわれています(注7)。そして、1989年、天皇の代替わりにおいて、天皇の私的宗教行為である「大嘗祭」が「公的行為」として行われました。これは明らかに、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている憲法第20条3項の政教分離原則に違反します。
 このように天皇の地位がたとえ「象徴」とされても、天皇の宮中における祭祀行為との関わりが旧憲法下の場合と同じように、「皇室の伝統」の名の下に既成事実化され是認されるなら、政教分離の原則はどこまでも空洞化される危険があります。従って、象徴天皇制は、政教分離原則と矛盾する概念であり、政教分離の空洞化原理としてしか作用していないことを銘記すべきです。


問18 政教分離原則は、聖書の教えにかないますか。
答 政教分離の原則は啓蒙主義の影響を受けた「社会契約」の思想家たちによって理論化され確立してきたという歴史的な経緯があるため、これを非聖書的な原則だと考える人もいますが、私たちの信仰においては、積極的に聖書の教えにかなうものです(注8)。
 創立宣言の主張の第一点は、「有神的人生観乃至世界観こそ新日本建設の唯一の基礎なり」と述べ、政治・経済・文化・芸術等あらゆる分野で、キリスト教有神論に立ったキリスト者の積極的関わりを奨励しています。しかし、制度教会と国家機関との関わりについては、政教分離の原則を「近代国家の知恵たると共に聖書の教に適ふもの」として、「教会の自律性を尊重する」立場を取っています。
 この立場は「創立三十周年記念宣言」においてさらに明確化されました。三十周年宣言は、教会を国家の宗教的機関と考えることも、国家を教会の政治的機関と考えることも共に否定しました。しかし、「教会はその福音を政治的・経済的・文化的・または民族的ないかなる信条とも混合混同してはならない」が、「同時に教会は……国事に超然としていることは許されない。われわれは、宗教的理由にせよ政治的理由にせよ、教会を国家から完全に分離すべきだとするいかなる教えをも拒否する」と述べ、教会の国家に対する奉仕は、福音宣教による関わりであって、祈り、伝道、キリスト教的愛のわざ、国家を見守るものとしての預言者的なつとめによることを宣言しています。


問19 政教分離の原則を今後どう積極的に評価し、それを守るために、私たちはどの様な戦いをしていけばよいでしょうか。
答 政教分離の原則は、あくまでも国家と教会の制度的分離を定めたもので、教会の国家への関心やすべての関わりを否定したものでないことは問8において明らかにされましたが、その積極的な評価を試みたいと思います。
 第一に、政教分離の原則を良心の自由の問題との関係で積極的に評価していく必要があります。信仰は、国家の強制によってもつものではなく、人が「良心の自由」によって持つものです。信仰は最も強制を嫌います。そして、自分が信じていない宗教が国教化されるとき、私たちの信仰の良心が痛みを覚えます。信じない宗教儀式のために私たちが納めた税金が使用されたりすることは、良心の耐えがたい苦痛です。政教分離の原則は、この良心の自由の問題として、積極的に訴えていくことが今後の戦いにおいて重要な意味を持ってきます。
 第二に、政教分離の原則は、教会(宗教)自体の純粋性保持のために積極的に評価する必要があります。政治権力と宗教団体との癒着は、宗教自体の堕落を招きます。国家から財政的援助を受けたり、国教的地位を与えられると、教会は伝道に従事しなくても成り立ち、伝道への意欲は著しく減退します。また、国家権力による不正や介入に対して預言者的なつとめを果たす姿勢が鈍り、国家そのものの堕落を救う働きができなくなります。ですから、政教分離のための戦いは、少数者の側の自己保存という消極的な捉え方ではなく、あらゆる宗教の健全な発展のために必要であることを積極的に評価すべきです。国家制度の中では、あらゆる宗教教派は、同等の立場でその教化育成を競争することによって健全な成長を遂げるというのは歴史的な教訓です。
 第三に、政教分離の原則は、国家そのものの堕落を防止するための原則としても評価されます。政治権力と宗教団体とが癒着すると、政治権力がその正当性の根拠を宗教的価値に求めることになります。それによって、政治の世界での責任倫理を放棄し、相対的な政治の世界に絶対的な価値を持ち込み、自己絶対化に向かい、非合理的な政治運営をすることに傾き、政治権力の腐敗・堕落を招きます。



   (注)

(1) カトリック教会体制の下では教会が国家の上にあり、カトリック以外の立場はいっさい認められませんでした。領邦教会体制では国家が教会の上に立ち、領主の決めた宗教教派以外の立場は認められず、「一つの国ではただ一つの教えを説くことしか許されない」という原則が確立し、国家による宗教選択の自由はあるが、個人やある教派にとってはいぜん自由が認められませんでした。
(2) それ故、勢力関係や王の考えの変化で寛容令は常に廃止の危機にさらされることになりました。事実、ルイ14世は1685年にナントの勅令を廃止しました。しかし、寛容としての信教の自由は、ヨーロッパ世界にだんだん定着してゆきました。
(3) 国定宗教の下に、寛容の問題として少数者に信教の自由を認めるだけでは、少数者は多数者の間にあって常に不利益をこうむり、良心の苦痛を覚えることになりやすいと言わざるを得ません。信教の自由が真の自由として実質を得るためには、あらゆる宗教教派に対する宗教活動の自由とともに、国家の完全な非宗教性、宗教的中立性、宗教に対する無干渉・無援助等を定めた政教分離規定を持ち、そうした権利侵害が起こつた場合や、不利益や良心の苦痛を感じた場合に、国家に救済を請願したり、訴えることができる制度を憲法において定められていることが、信教の自由の不可欠な必要十分条件であることを、これらの歴史の事実が証明しています。
(4) 大日本帝国憲法においては、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民クルノ義務二背カサル限二於テ」という留保がつけられました。同憲法は、「神聖不可侵」な天皇を、「統治権ノ総攬者」即ち、主権者としていたので、「臣民タルノ義務」は当然の如く「皇祖皇宗ノ神霊ヲ」継承する天皇に対するものと考えられました。同憲法体制の下では、天皇を祭る神社や天皇に祭られる神社は、「宗教に非ず」とするいわゆる「神社非宗教論」によって、他の宗教や教派神道などと区別された超宗教的扱いを受け、国家神道としての道を歩みました。国民はどの宗教を信じても自由とされましたが、靖国神社や護国神社に対する参拝を「臣民タルノ義務」として強要され、これを拒む者は「安寧秩序ヲ妨ケ」る非国民として弾圧されました。
(5) いわゆる「天皇の人間宣言」は、天皇の神格否定と一般には考えられているようですが、それは必ずしも天皇の神格否定を意味しなかったという解釈もなされています。昭和天皇も、「神格(否定)とかは二の問題でありました」(『朝日新聞』1976年8月24日号)といっております。
(6) 旧皇室典範においては、天皇の崩ずるときの祖宗の神器の継承(10条)並びに大嘗祭(11条)の規定がありましたが、現皇室典範では、これらの皇室祭祀に関わる規定はなく、わずか即位の礼(24条)と大喪の礼(25条)を定めるにとどめられています。この変更は、現憲法が象徴天皇の地位を国民主権の下に置き、信教の自由と政教分離原則を明確に謳(うた)い、神権天皇制を否定した趣旨を踏興してなされたものであります。しかし、1989年の天皇の代替わりにおいて、何ら法的根拠を持たなくなった「祖宗の神器の継承」も「大嘗祭」も「皇室の伝統」の名の下に行われました。皇室の伝統とは、皇室祭祀に関わるものにはかなりません。
(7) 宮中祭祀に関わる掌典職は天皇家の私的使用人であり、掌典長等の人件費は、一応内廷費(皇室の私生活に関する費用で、御手元金として自由に使用することが認められ、宮内庁が管理する公金としない)から支出されています。しかし、多くの宮中祭儀を行うにはこれら掌典職だけでは足りないのか、国家公務員である宮内庁職員を補佐役として関わらせています。
(8)国家と為政者の権威は神に由来します(ローマ13:1)。しかし、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと」(Tペトロ2:13)と、いわれています。この聖句は、国家制度を「人間の立てた制度」と見て、その限界のあることも示しています。その限界を、教会に委ねられた祭司権能との関係で見ることが大切です。ウェストミンスター信仰告白第23章3節は、「国家的為政者は、み言葉と礼典の執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない」と告白し、歴代下26章28節には、ウジヤ王が聖別された祭司にのみ属する「香をたく」権能を侵したことへの祭司アザルヤの非難の言葉が述べられています。





 三 宗教と習俗

問20 今なぜ、「宗教と習俗」を問うのでしょうか。
答 国家が、宗教的行事にあたるものを習俗的行事として扱うことによって政教分離の原則が侵されてきているからです。
 津地鎮祭達意訴訟までは、「習俗」とは一般に人類学や社会学などで使われている言葉でした。それがにわかに宗教的、政治的、社会的に注目されるようになったのは、津地鎮祭違憲訴訟以後です。この訴訟で津地方裁判所(以下、津地裁)は、地鎮祭は、「習俗的行事」であるとしました。
 こうした判断そのものに問題があります。神社固有の儀式にのっとって行われた地鎮祭を、国家が、「宗教的行事というより寧ろ習俗的行事」としたことは、憲法第20条1項の信教の自由の原則に違反するからです。こうした違反が違反でないかのように取り扱われていく傾向が、近年いっそう強まりつつあります。ですから、習俗とは何であるのかを改めて捉えなおすことが肝要です。ことに私たちは、宗教と習俗の峻別に無関心でいることはできません。
 宗教的行為であるものを、宗教とは関係がないものとしたり、国家の側において宗教を規定しようとする慣行が出来つつありますが、これは明らかに憲法違反です。国家は何を判断基準に、宗教か非宗教かを規定できるのでしょうか。国家による宗教の規定は、越権行為であり、許されないことです。国家のなすべきことは、「あらゆる国民の諸権利を公平に守り、公共の平和を確立する義務」(注1)を果たすことです。


問21 ではまず、津地鎮祭違憲訴訟について説明してください。
答 津地鎮祭達意訴訟は、1965年1月に、三重県津市の市会議員関口精一氏が津地裁に起こした訴訟です。関口氏は、津市が市の体育館の起工式で神道式の地鎮祭を行い、その費用として市の公金を支出したことは、憲法の政教分離の原則に違反していると提訴しました。これは、名古屋高裁、最高裁まで争われた日本で最初の本格的な政教分離の原則に関する裁判です。
 地裁では、地鎮祭は、「外見上神道の宗教的行事に属することは否定できないけれども、その実態をみれば神道の布教宣伝を目的とする宗教活動ではもちろんないし、また宗教的行事というより習俗的行事」との理由で合憲となりました(注2)。
 高裁では、「地鎮祭は、宗教的信仰心の表現であり、産土神(うぶすながみ)に対する信心の発露としてまさしく宗教的行為そのものである。それは宗教的内容の捨て去られた、形だけの、単なる儀式に土地神信仰の影が痕跡として残存しているといった、非宗教的性質のものではなく、信仰者の心からの宗教信仰の外部表現そのものである」との判断で達意となりました(注3)。
 しかし、最高裁では、「国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが(それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし)相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないもの」と解し(注4)、「本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従った儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法20条3項により禁止される宗教的活動にはあたらない」(注5)とする、いわゆる「目的効果基準」という理由づけによって合憲となりました。
 この結果、国や公共団体が宗教的行事にかかわる道を開くことになり、国家の宗教に対する中立性が曖昧にされ、今日に至っています。


問22 では、最高裁がこのような判断を下しているのに、なぜ宗教と習俗の厳格な峻別を求め続けるのですか。
答 国家によって宗教と習俗との境い目が曖昧にされることにより、国家による宗教への侵害と管理という国家的罪が犯され、ひいては、個人の基本的人権が揉潤(じゅうりん)される全体主義におちいる危険性があるからです。宗教、特に神道と密接な関係にある地鎮祭を習俗としてしまった裁判所の判断は、近年ますます宗教と国家の関係を曖昧なものにしています。今後、この判断を最高裁自身が訂正しないかぎり、宗教と国家の関係はいっそう不明朗なものとなり、憲法が保障する信教の自由が、このことによって侵害され続けます。
 しかし、私たちは、何でも反対しているのではありません。たとえば地鎮祭が神道宗教の行為として、民間でそれぞれの信仰に従って行われることに、私たちは反対しません。その他、宗教性を色濃く残している習俗であっても、その宗教行為が民間でなされることは、憲法第20条1項前半で、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と謳(うた)われているように、私たちはその自由を尊重します。
 ただ地鎮祭のような宗教行事が、習俗の名のもとに国や公共団体の行事として行われることによって、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」 という同条一項後半に違反するゆえに反対するのです。
 さらに、宗教的行為であるものを、習俗として、国や地方公共団体が主催することは、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という同条3項及び、第89条の「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」という政教分離の原則の違反であります。


問23 国家が宗教の規定をすることができるのでしょうか。
答 国家には宗教を規定(定義)する権限と責任は与えられていません。また、現実に、国家は、誰もが納得できる宗教についての規定をくだすことは不可能です。文部省宗務課が1961年に刊行した「宗教の定義をめぐる諸問題」という小冊子では百余の定義があげられていますが、このことは、国家も国家の側から宗教を規定できない事実を認めていることを示しています(注6)。
 それほどまでに宗教は、内心の自由に最も深く関わる事柄であるということです。国家がもし、宗教についての規定をくだすとするならば、そこでは既に国家による内心の自由への侵害が起こつていることを知らなければなりません。
 このように、宗教を定義する権限と責任は国家には与えられていませんが、国家は、宗教法人としての認可を受けた、「神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体」(注7)と、これらの「団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体」(注8)が執り行う宗教行事や宗教活動が宗教行為そのものであることは、法に従い明白に判断できます。従って、国家が、宗教法人として認可されている宗教団体が行う宗教行事や宗教活動を習俗として扱うことは絶対に許されません。


問24 それでは、習俗とは具体的にどのようなものをいうのでしょうか。
答 習俗といえば、一般に節分、七五三、雛(ひな)祭り、端午(たんご)の節句、各種の村祭り、死者の葬りの際の北枕とか副葬品、そして正月の門松などを思いうかべることでしょう。習俗と宗教との結びつきは多様に考えられますが、これらは私たちの生活に節目をつけるものであり、ことに日本人の冠婚葬祭などに示される人生儀礼(通過儀礼)に深い関わりをもってきました。このようにして生み出された習俗は、もともと宗教と深い関わりを持っていました。
 三重県津市において、地鎮祭(注9)をめぐっての違憲訴訟が争われたとき、その訴訟過程で、習俗についての裁判所の判断が出ました。それによると、習俗とは、「少なくとも三世代以上にわたり、民間に伝承されて存する定型化された慣行」の場合だとしました(名古屋高裁判決)。そのときの判断によれば、クリスマス・ツリーは習俗であるが、地鎮祭は実施されるようになってまだ数十年しか経過していないので習俗ではない、というのです。
 しかし、私たちは裁判所のこの判断にも慎重な態度をとる必要があります。なぜなら、判決の言う世代基準も、その妥当性を客観的に証明できるものではないからです。更に、この判決理論に立つならば、地鎮祭もまた三世代以上を経過した後は、習俗であるとする判決に変わる可能性があります。
 私たちが、宗教か習俗かを見極める目安は、その習俗が本来担ってきた宗教性を脱却しているかどうかにかかっています。信仰の戦いが求められる習俗については、一つ一つ丹念にその宗教的起源を明らかにしつつ、その習俗に残存している宗教性を検証しなければなりません。その結果、習俗行事化したものであっても、今日、なお、宗教性が認められる「宗教的な習俗行事」については、宗教の範疇に属するものと判断すべきです(注10)。


問25 ところで、今日、国家の側において宗教であるものを習俗と強弁する傾向が強まってきているのではありませんか。
答 その通りです。本来、宗教であるものを習俗として一般化する傾向が学校教育等の現場に現れてきていますから、私たちはこの傾向に対して厳しい目をもって監視しっつけねばなりません。この目的を果たすために、1974年5月、「政教分離の会」(略称)が設立されました(注11)。
 一般に宗教行事である事柄を、「宗教ではなく習俗である」と言いくるめていく論理は、かつての国家が、「神社は宗教ではない」と強弁していた論理と酷似している誤りであることを私たちは明らかにしなければなりません。
 国家による祭儀は、日本国憲法の政教分離の原則(第20条3項)によって明らかに禁止されていますから、国家は宗教行事に対して中立的立場を堅持しなければなりません。この憲法原則に立たなければ、各宗教に対して、国家が公平で等距離の態度を保つことは不可能です。
 国家のあるべき宗教的公平性と中立性は、本来私的であるべきはずの皇室の祭儀が、国家的行事化していることによって崩壊しはじめています。


問26 葬送儀礼も習俗と密接な関係があるのではありませんか。
答 その通りです。葬送儀礼は次々と新しい習俗を作り出してきました。今日、日本に定着している三十三年忌は造り出された死者儀礼であって、古くから三十三年も連続してなされてきた儀礼ではありません。古くは一年忌で仏事は終わっていました。しかし、今日一般に弔いあげと言われている最終年忌は三十三年忌ですが、これは鎌倉時代に始まりました、七年忌、十七年忌などは、室町時代から始まるようになり、時代が進むと共に今日一般的にみられるような状況になってきました(注12)。五十回忌というのはかなりくだった時代に加えられるようになった年忌です。三十三年、あるいは五十年もの間、生者の人生が死者儀礼によって縛られている状態は、何といっても不幸なことです。
 私たち人間は常に不死を願い、死後の幸いを求めます。そこから人間は次々と新しい習俗を生み出してきました。死者の枕もとや胸の上に刃物を置くこと、「善光寺参りのためともいわれる枕飯や枕団子、火と忌をかけて、葬家では火を使わぬ習慣、爪を切って、ずだ袋に入れるという不思議な行為、けがれの問題、出棺の仕方、その後の死後儀礼の問題」(注13)等数え上げるならば切りがありません。
 私たちキリスト者は、これらの偶像礼拝に関係する習俗とは決別すべきです。しかし、決別するためには、異教的習俗のルーツとその宗教性を正しく見抜き、私たちがそれに従えない理由を、福音の宣教という視座の中でとらえなおし、福音の光のもとで積極的に弁証・説明する責任から逃れることはできません。なぜなら、キリスト教会は、異教的習俗にとらわれている人々を福音の光の中に招く使命を、主イエス・キリストから託されているからです。


問27 私たちの改革派教会において、宗教と習俗の問題で、実際に信仰的な闘いをした実例を教えてください。
答 私たちの改革派教会は、第6回定期大会(1951年)において、「神社問題に関する建議案」を満場一致可決しました。それは、「(1)我らは神社が偶像なる事を明らかにし、その参拝を拒否すること。(2)神棚仏壇等を拝せざること。(3)公務員が其の公の資格によって神社参拝、慰霊祭その他の宗教行事に参列する事は信仰の自由を害するものとして常に反対すべきこと。(4)教会員が民間団体の役員となる場合は前記の行為に加はらざることを条件とすること」の四項でした。
 この決議の線に沿って1952年(昭和27年)香川県キリスト教連盟に属していた石丸幸助、野田辰夫両牧師は先頭に立って、香川県と県遺族厚生会共催で開催された善通寺護国神社における戦没者合同慰霊祭に対して、「信教の自由に関する声明書」(6月1日付)を連名で発表しました。これは各方面に反響を呼び、四国新聞には声明書全文が掲載され、5日には記事として取り上げられました。また同日付けをもって朝日新聞、毎日新聞の香川版にも記事が掲載されました。朝日新聞の表題は「神社での慰霊祭は憲法上の違反か−県キリスト教連盟政教分離で声明−」となっています。
 もう一つの実例は、1951年暮れ、岐阜県関市でのことです。市の善光寺の開帳記念大祭が行われるにあたって市は、その諸費用の分担を観光振興の名目のもと半強制的に町内会を通して市民に割り当てました。敗戦から六年、新憲法の定着まもない頃、市民が当然のこととして不審をいだかない中、関教会の壷阪国三牧師は、個人の名をもって、市による当該行為が憲法第20条、及び第89条に違反するとして、「声明書」(52年1月付け)を市長、市議会議長、連合町内会長、言論機関に送付、あるいは訪問面接して、その非を訴えました。これは当時としては画期的な行動であり、革新系の市議は市議会でこれを採りあげ、その真相を究明し、各新聞は壷阪牧師の主張を支持しました。その結果、市長は、この割当金が強制ではなく市民の自由意思によることを認めるに至ったのです(注14)。



  (注)

(1) 『宗教ハンドブック宣言集』25項 日本基督改革派教会創立三十周年記念宣言
 「教会と国家にかんする信仰の宣言」日本基督改革派教会大会出版委員会1989年
(2) 『宗教関係判例集成』政教分離・信教の自由 7項 第一書房 1984年
(3) 前掲書 29項
(4) 前掲書 74項
(5) 前掲書 77項
(6) 『宗教学』小口偉一編 1項 弘文堂 1981年
(7) 宗教法人法 第2条1号
(8) 同法同条 2号
(9) 平凡社、『世界大百科事典』によれば「とこしずめのまつり」とも言われる建築儀礼の一つ。「起工に先立って敷地内に祭場を設け、敷地、工事、建築物の平安を祈願するもの」。この儀式は、産土神(うぶすながみ)・大地主神(おおじぬしのかみ)を祭神として行われるという。また、完工後には、上記の神々へのお礼のために後鎮祭を行う。記録の上では、691年(持統天皇5年)に、「新益京(しんやくのみやこ)を鎮め祭る」と記されている日本書紀の記録が最古のもの。儀礼の内容は、一つは献僕(けんぜん)(神前に物をそなえること)と祝詞(のりと)の奏上であり、他は敷地のきよめはらいと鎮物(しずめもの)の埋納です。「鎮物は忌物(いみもの)とも呼ばれ、人形、楯、鉾、刀子(とうす)、鏡、玉、銭などで、折植(おりびつ)などに入れて埋納される」。この記述にも明らかなように、地鎮祭は、習俗というよりは、神道の一つの宗教行事です。これを憲法の政教分離の原則に違反しないとした最高裁の判断は、明らかに誤っています。
(10) 津地鎮祭違憲訴訟、最高裁判決少数意見は、「宗教に起源を有する儀式、行事であっても時代の推移とともにその宗教性が希薄化し今日において完全にその宗教的意義・色彩を喪失した非宗教的」なものは「習俗」であるとした。『政教分離と目的効果基準』津地鎮祭事件最高裁判決の一考察127項 種谷春洋 判例時報865号
(11) 正式名称は、「政教分離の侵害を監視する全国会議」。1974年5月12日、津地鎮祭違憲訴訟や靖国神社法案反対の運動の中から、政教分離の侵害を監視し国民の思想、良心、信仰などの精神的自由を確立するために発足した。事務局は、東京都国立市富士見台団地1-11-108 西川重則方。
(12) 「世界大百科辞典」 24巻「年忌」の項、平凡社 1981年
(13) 日本ルーテル神学大学神学セミナー編「現代葬儀事情」財団法人キリスト教視聴覚センター
(14) 『靖国法案の展望』230項 西川重則著 すぐ書房 1976年 この他、「靖国神社国家護持法案」に改革派教会全体が反対した運動や、また個人的な訴訟ですが、多くの兄弟姉妹が支援した岩手靖国連憲訴訟(原告団長は井上二郎氏=当時、改革派盛岡伝道所牧師)などがあります。





  四 天皇制

開28 天皇とは、どのような存在ですか。
答 日本国憲法は、天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」だと規定しています。「日本国」と「日本国民統合」を連想させる具体的なものとして、天皇を設定したということです。とくに、「日本国民統合の象徴」というのは、国民を「統合する」象徴ではなく、「国民が統合していること」を象徴するということで、天皇が積極的に統合することを憲法は認めていません。また、天皇は、その権能を、「国事に関する行為のみ」に限定され、「国政に関する権能」を認められない存在です。「国事に関する行為」と言っても、内閣の「助言と承認」の下での形式的・儀礼的なものですから、天皇は政治的にはまったく力を持たない存在なのです。
 そしてなによりも、主権者は国民であり、天皇の地位は国民の「総意」に基づくものとされていますから、天皇が国民より上位にある存在だとは考えられません。内閣の助言と承認の下に位置づけられるのが、国事行為をおこなう天皇という存在です。行政府の長でもなく、条約などを締結する権能をもたない天皇は「元首」でもなく、また世襲はしますが統治権をもちませんから「君主」でもありません。
 戦前までの天皇は、祭祀権をもっていました。現在は、“宮中祭祀”として、私的におこなっていますが、それは依然として“宗教的権威”を身をもって示しっづけていることなのです。まつる神(祀祭者)であると同時に、アマテラス大神以来の「天皇霊」の継承者として、まつられる神(礼拝対象)をもって任じているというのがその実体です。


問29 天皇制の歴史、ことに近代の天皇制とはなんだったのですか。
答 古代の律令制以来、天皇制というシステムには、宗教としての天皇制という側面と、権威と権力を受け持つ側面とがありました。ですから、近代の天皇制においても、「神聖ニシテ侵スヘカラス」という天皇の像と、近代的な立憲君主としての天皇像が共存しています。
 明治維新において、京都にあった朝廷が解体されます。それは、中世の摂関家のように、血縁や婚姻の関係によって、つまり天皇の外戚になることで権力を掌握するような制度を、近代の天皇制は否定したことを意味しています。それと同時に、東京遷都ということで、畿内に限られた土地の支配が、日本という国土全体を統治する、スメラミコトとしての天皇、宗教的な権威の中心として組み直されることとなったのです。
 要するに、近代の天皇制は、宗教としての天皇制と分かちがたく結びついて、権威の源泉としての天皇制と、政治的権力を掌握した集団や勢力との共同支配が存続しているということです。そして近代の天皇制において。特徴的なことは、天皇信仰ということです。つまり、天皇を生き神とか、現人神として、絶対的な宗教的帰依の対象とするといった信仰が、近代において生み出されてきたのです。それは、天皇巡行とか、教育勅語、また御真影(ごしんえい)の配付のような、国家神道的な教化の直接的な緑果として組織されてきたためでした。


問30 象徴天皇制と国民主権は、矛盾しませんか。
答 あきらかにこの二つのものは矛盾します。憲法前文は、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来する」とし、人類普遍の原理である国民主権を宣言し憲法を定めました。主権とは、国の統治についての最高決定権のことです。憲法の基本原理である国民主権の原理は、ひろくいえば、憲法の全条文に滲(し)みわたっているものなのです。しかし憲法の第1章は、本来ならば主権者である国民の地位、その基本的な権利などを明らかにすべきでしたのに、「第1章、天皇」となっており、したがって、論理的にも国民主権原則と矛盾するのは明らかです。国民主権と、世襲の天皇制とは、どうしても相容れないものです。憲法前文に、ひとは生まれながらにして自由。平等であるという普遍的理念を宣言しました。しかしその一方で、生まれながら(世襲制によって)の特権的な貴い身分、血縁的家族制度を存在させているのですから、憲法内矛盾といわれています。
 国民主権と天皇制という、原理的に相対立する二つのものを採用するとなると、どのようにして両者を調和あるいは妥協させるかということが問題になります。これは、憲法が背負わされた重い課題です。第1章は、天皇制廃止論をも含めて、天皇制についての批判の自由を認めるものとしなければなりません。


問31 ロマ書13章の「上に立つ権威」とは、天皇に該当しますか。
答 天皇には該当しません。ロマ書13章の「上に立つ権威」を該当させるとすれば、それは、公務員として国民全体に奉仕し、「国民の福祉を増進し不正を抑制する」立法・行政・司法における国家為政者であり、天皇ではありません。天皇は、かつての超法規的な存在ではなく、国家の最高法規としての憲法を「尊重し擁護する義務」をもつものです。天皇には、国政上の権威は与えられていません。主権者は国民であって、全国民を代表する、選挙された議員で組織された国会が、国家の権威である国権の最高機関です。そこに基礎を置く内閣があり、その助言と承認の下に、儀礼的で名目的な国事行為をおこなう天皇が位置します。
 ですから、国民の「上に立つ」天皇というのは、現在の憲法のどこからも出てきません。宗教的権威も行使することはできません。宮中祭祀として、私事としておこなわれるのみです。しかし実際には、天皇の権威が強化されていく傾向をもっています。天皇がおこなうことのできる権能を、憲法は13の国事行為に限定していますが、その行為がどれほど形式的・名目的であったとしても、天皇が国権の最高機関である国会を召集することは、あたかも天皇が国会よりも上位にあるかのような印象を国民に与えてしまいます。私的であるべき皇室の祭祀にも、公的性格ありとして、葬儀や大嘗祭に公費が支出されましたが、これも宗教的な権威を公認して、いっそうの権威づけをおこなうものです。


問32 なぜ、天皇は、国王のように国を代表して、国賓を接客するのですか。
答 日本国を代表して、国賓を接客することは、憲法の定める天皇の国事行為には含まれていません。しかし、外国の元首などが訪日した際に、宮中晩餐会を主催し、その模様がテレビを通して国民の眼にふれるものですから、あたかも天皇が日本国を代表して歓迎式をおこなう者のように、国家元首であるかのように映ってしまいます。近年、多くの国民がこのような「皇室外交」を天皇および皇室に期待する傾向が強まっているようです。しかし皇室外交には、違憲の疑いも提出されているのです。
 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」(憲法前文)するとの、国民主権の原理のもとに、「諸国民との協和による成果」を求めてきたのであって、皇室に外交を委ねたのではありません。しかし、その「代表者」が、政治的な主体性や自律性を弱め、「天皇の政治利用」をはかる間に、いわゆる天皇の「公的行為」なるものが無際限に拡大され、国民の限にもあたかも皇室外交が存在するかのごとき錯覚が生じてしまったのです。
 天皇を元首とみる慣行が国内的にも定着しっつあることは、天皇の権威強化に結びつき、国民の意識の中に、かつての元首=天皇像の再生を図ろうとするものであるとしか考えられません。


問33 日本人にとって、天皇を敬い、皇室を慕うことは、自然な感情といえるでしょうか。
答 けっして、そうではありません。「天皇を敬い、皇室を慕う」という表現そのものが、先の問答にあったように、国家神道的な教化の手段としての、天皇巡行、教育勅語、御真影(ごしんえい)など、きわめて作為的なスローガンのようなものでありましょう。それに、歴史的にも日本人の自然な感情であったという事実はありません。むしろ徳川時代を通じて、天皇に対する庶民の感情が希薄であったために、日本の近代の教育は、天皇制教育一色にぬりつぶされます。学校教育は、「教育勅語」とともに、「日の丸」「君が代」が重視され、ことに紀元節や天長節などの天皇の祭祀とセットになった祝祭日の儀式において、天皇への敬愛を子どもたちに教えこんだ結果として生み出されていったものです。天皇と皇室への敬慕を絶やさないようにと、「日の丸」「君が代」が、敗戦後の学校教育の現場にも、強制の度合いを深めながら持ち込まれています。天皇制が国民の間に根強く浸透しているのは、学校教育という子ども時代から始まる生活秩序の中に権威として植えつけられるからです。このように、天皇への敬愛は、教化の手段を用いたきわめて作為的なものによるのであって、自然な感情だとことさらに主張できないでしょう。
 また「祖国日本を敬愛することは、天皇を敬愛することと一つである」などと主張することもあります。しかし、「祖国日本を敬愛する」などというのは、何かしら神道的・国家主義的な響きがしますし、愛国心が必ずしも天皇への敬愛と結びつくものでもないでしょう。むしろ、日本人であればだれもが天皇を敬い、皇室を慕う感情をいだくものだ、などというのは、それこそ危険な考えです。天皇に対する敬愛の情の有無、あるいは天皇への関心・無関心、天皇制に賛成または反対、それは個人の自由に属する問題です。それが「自然な」感情だとするような発想には、暗黙の強制が感じられます。これらは、多くの場合、マス・メディアによって作られるイメージでもあります。


問34 皇室神道とは、特別な神道ですか。
答 一般に、神道の概念はあいまいですが、そこには神社神道・皇室神道(宮中祭祀)・学派神道・教派神道・民間神道などが主要なものとしてあげられます。
 もともと天皇家は仏教信仰に熱心で、宮中にはお黒戸(くろど)とよばれる仏間があり、歴代天皇の位牌(いはい)が置かれ、年忌法要が営まれていました。天皇が譲位して出家し法皇といわれた例はたくさんあり、在位のまま出家した後醍醐天皇の例もあります。皇族が住職となるための門跡寺院(もんせきじいん)という制度さえありました。明治維新によって、位牌にかわって皇室独特の霊位がつくられて、新たに設けられた皇霊殿にまつられます。つづいて皇居の吹上御苑に神殿、賢所(かしこどころ)が造られ、宮中三殿とよばれます。この天皇家の新しい神道祭祀を、皇室神道とよんでいます。
 皇室神道ができると、宮中で祭りがおこなわれるときには、全国の神社でも同じ祭りをおこなうよう命じられました。宮中祭祀は、天皇の祖先の祭りと、記紀神話にもとづく政治色のつよい祭りでした。こうして皇室神道にならって、全国の各神社がおこなった祭りを「官祭」とよび、それらの神社の固有の祭りを「私祭」とよぶ慣例ができました。
 この皇室神道と神社神道を結びつけ、宮中祭祀を軸にして、全国の神社の祭祀を画一化し、また系列化して成立したのが、国家神道なのです。


問35 新天皇が即位するとき、即位の儀式をおこなうことに問題があるのでしょうか。
答 「即位の礼」とは、“新天皇の即位を公に宣明(せんみょう)すると共に、その即位を内外の代表が祝う儀式”といわれています。皇室典範に「皇位の継承があったときは即位の礼を行う」と規定しているのみです。今回(1990年)、国事行為としておこなわれました。
 国事行為は、憲法の国民主権の原則が貫かれるような行為として、国民に承認されるものでなければなりません。しかし、今回の即位の礼は、戦前の旧憲法下の式典(登極令)を踏襲し、天皇が高御座(たかみくら)に上り、台の下で、内閣総理大臣が「臣下の誓い」に等しい「寿詞(よごと)」を述べ、万歳三唱をするという旧憲法下の光景が再現してしまいました。これは、「主権在民」をうたっている憲法前文と、天皇の「地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」の憲法第一条を空しくする行為であり、天皇に特別な権威を持たせることでした。また問題なのは、国事行為としての即位の礼が執行されていると同時刻に、宮中三殿に報告するという皇室神道の宗教行事が一体となっていたことであり、政教分離原則にもふれることです。このように憲法の基本原則を台無しにする問題性をはらんだ儀式ですから、新天皇の即位の礼には、国民主権の憲法の趣旨に沿った新しい式次第を国会で論議し、用意すべきでした。


問36 新天皇が大嘗祭で神になるというのはほんとうですか。
答 大嘗祭は、「新しく即位する天皇を神格化するための儀式」であるとか、「歴代の天皇霊を宿す存在として神格化される儀式」だと言われています。「天皇霊」をくっつけたり、神になったり、ということを大真面目に信じることができるのでしょうか。
 また、1946年元旦の詔書(「人間宣言」)によって、「神格を否定し人間にもどった天皇」を私たちは知っています。「現人神だった天皇が、ただの人間になったんだって」、生き神信仰の熱気から醒めて、敗戦まもない生きることに事欠く国民はいくぶん自嘲ぎみに噂しあったのでした。ひとりの人間が、神格をとるとか、神になる、ということはありえないことです。そう信じさせられたのであり、そう思いこまされただけだったのです。もちろん、新天皇が大嘗祭において神になった、と信じている人たちもいますし、それを認めない人もいます。大切なことは、大嘗祭を挙行することによって、天皇制による国民の統合・支配、差別と排除、同化と秩序付けなどの政治的機能が少しでも果たされればよし、とする「天皇の政治的利用」がなされるということです。そのために、天皇の祭祀が私事として温存されてきたのです。毎年くりかえされる新嘗祭(にいなめさい)において、天皇はいぜんとして神を祀る祭祀者としての姿、宗教的権威そのものの姿を示しつづけています。大嘗祭において、天皇の祭祀王としての権威の強化がはかられます。それは、憲法の民主主義とは正反対の方向へ国民を精神的にまとめようと意図することなのです。


問37 天皇が国民のために五穀豊穣を祈ることを、キリスト者はどう受けとめるべきでしょうか。
答 天皇という制度は、私事である天皇の祭祀を核として、新憲法下においてもたえず更新されてきたことは疑いありません。ですから、大嘗祭に関する政府見解でも、「大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、……皇祖及び天神地祀(てんしんじぎ)に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式」としたのです。ここには、象徴天皇制のもとでも、天皇の宗教的威力を更新するための皇室祭祀が、天皇の内廷行為(私事)としてほぼそのまま温存されていることを示しています。それは、国家的公的性格をもたないはずでありながら、事実としては「国家・国民のために五穀豊穣を祈念する」のだと、たんなる私事にすぎない宮廷祭祀を、公のことへと作為しているのです。
 憲法は天皇にいかなる宗教的権威も与えていません。ですから、天皇は国民のために公的に五穀豊穣を祈ることなどできません。まして、御言葉に従う私たちキリスト者は、唯一の生ける神のみが私たちの支配者であり恵みの賦与者であると告白する立場から、天皇の公的祈祷を拒否すべきです。


問38 天皇のために祈る必要があるでしょうか。
答 私たちが、為政者のために祈ることは合法的です。私たちの改革派教会の「礼拝指針」によれば、個人としてのキリスト者の祈りだけでなく、教会の祈りとして、公的礼拝においても捧げられています。ですから問題は、天皇が為政者であるかどうか、なのですが、「象徴」なのですから、法律を定め、政治をつかさどる為政者でないことは明らかです。国事行為というのは、これとは無関係ですから、祈られる立場にはいないと言えます。憲法が、天皇について定めているのは、内閣の助言と承認の下におこなう、儀礼的・形式的な国事行為のみであって、それは「国政に関する権能」ではありません。したがって、私たちは天皇のために国政の権能に関する祈りをささげる必要はありません。また、天皇という称号は神であることをその名称自体に含みますから、偶像のために祈るべきではありません。


問39 天皇と靖国神社は、どう関わるのですか。
答 靖国神社は、天皇制と密接不離の関係です。「明治」時代以降、国民が国家によって神として祀られる唯一の神社が靖国神社です。靖国神社の神となるための条件は、「天皇の軍隊」に属し、天皇のために死んだ戦没者となることでした。「名誉の戦死」、これが「明治」維新前後の内乱から太平洋戦争にいたるまでの、国家の神となる条件です。まず「天皇の軍隊」のための神社という性格がありました。そして、いったん靖国神社の祭神となれば、その神霊は国家に帰属し、肉親の情などは寄せつけません。靖国神社の祭祀は、人霊を祭る儀式ではなく、あくまでも宗教的な性格をもった神霊を祀(まつ)る宗教儀礼なのです。このように靖国神社は、宗教施設であると同時に、軍事施設でもあります。
 こうして靖国神社は、国民の精神教育の原点、また精神的な国民統合の中核施設として大きな役割を果たしていきました。その精神とは、天皇のために生命を投げ出す精神としての大和魂です。国定修身教科書において、靖国神社は、その祭神をお手本として「忠君愛国」の精神を子どもたちに教えこむための教材でした。そのような完宗教。軍事施設に、国家最高の祭祀者である天皇が、陸海軍の大元帥の資格で、軍服着用の「親拝」(「公式参拝」)をおこなってきたのです。
 日本国憲法下でも、これまで靖国神社の国家護持が画策され、天皇の公式参拝を求める声があります。天皇がなんらかのかたちで公式に神社祭祀に関与することは、国事行為として宗教的行為に関係することになります。それは、私事である宮中祭祀が公的性格のものに転化することを意味します。ですから、天皇が靖国神社に公式参拝するということは、たんに憲法の政教分離の原則に違反する以上に、国民主権の基本原則と対立します。


問40 天皇の戦争責任とは何ですか。
答 天皇の戦争責任を問題にする前提は、いわゆる十五年戦争が侵略戦争だったという客観的な歴史の事実を承認することです。それを、義のため国家防衛のために止むを得ない戦争だったとするような、歴史の事実を歪曲した立場からは、戦争責任は生じてきません。戦争責任は、その法的な側面と、また政治的・道義的な側面とから明らかにされてきました。天皇の戦争責任については、およそ次のような見解があります。
(1) 国際法的な面では、国家元首としての天皇の名のもとにおこなわれたアジアの国々への侵略戦争行為、その平和と人権に対する罪、また捕虜虐待など、それらは日本も加盟していた不戦条約(1928年)および日本政府が準用を約束したジュネーブ条約(1929年)への違反だから、国際法上の責任は明らかだとする見解です。
(2) しかし、敗戦後の東京裁判で天皇は訴追されませんでしたから、戦争責任の問題は決着したとされる見解があります。けれどもそれは、連合国の、ことにアメリカ合衆国による高度に政治的な占領政策に基づくものでしたから、それをもって天皇の国際法上の責任が一切ないものと認定されたわけではなかったのです。
(3) また、国内法的には、帝国憲法上では、天皇に法律上の責任を問う余地はないという、「君主無答責」(帝国憲法第3条)と呼ばれる見解があります。
(4) しかし、その「君主無答責」に対して、一定の留保をつける見解があります。つまり、帝国憲法は、天皇が統帥権(とうすいけん)を持つと宣言しています。統帥というのは、陸海軍にたいする最高の指揮命令のことです。天皇が戦争してはならないといえば、戦争にならないのです。天皇に戦争責任があることは否定できないという見解です。
(5) そして、天皇の政治的・道義的な責任を問うという見解があります。すなわち、アジアだけでも少なくとも2000万人以上の人々が、「天皇の軍隊」の下での侵略戦争の犠牲になったことに対して、宣戦大権を行使し、元首として対外的に日本を代表する地位にあった天皇が、政治的・道義的に責任がないという議論は、国際社会の中で到底通用しないからです。たしかに、事実の問題としても、アジアの国々の戦争犠牲者に対する補償の問題はなお未解決のままに残されています。国内でも、300万人もの国民が天皇の名のために死んでいったことについて、少なくとも政治的・道義的な責任は確実に負っていたと言えます。


問41 天皇の代替わりによって「昭和」天皇の戦争責任は問うことができなくなったと言われますが、本当なのでしょうか。
答 そうではありません。今こそ、国民は、「昭和」天皇の戦争責任を明らかにしなければなりません。
 まず第一に、東西の冷戦構造の終結をうけた世界の新秩序が模索されているときに、国連の軍事面での役割がにわかに浮上してきた結果、PKO法による自衛隊の海外派兵が現実のものとなった状況を覚えねばなりません。そして、「恒久平和を念願し」、「平和を維持し」て、「平和のうちに生存する権利」をうたった憲法前文の理想と目的を達成するためには、過去の誤った侵略戦争への反省と賠償責任を真実に果たしてゆくことからはじめねばなりません。
 天皇の名のもとに、天皇の軍隊として、過去に犯した罪は、アジアの国々においてけっして忘れられてはいません。ですから、「(先の大戦が)侵略戦争であったかどうかは後世の歴史家が評価すべき問題」だとするような、侵略戦争を否認する発言が出たり(注1)、また「お心ならずも勃発した先の大戦において」(注2)というような表現において、天皇の戦争責任をあいまいにする発言が出る場合には、まして、「南京大虐殺」は「でっちあげ」だというような、歴史の事実さえ無視してしまう発言が出された場合には、アジアの諸国から、正当にも厳しい批判が寄せられます。
 天皇が、「昭和」天皇から代替わりをすることによって、もっと客観的に、この事実に向き合うことのできる時がきたのです。いまこそ、日本国民は、天皇の戦争責任を明らかにして、国際社会における名誉ある地位を確立すべきなのです。


   (注)

(1) 竹下元首相、1989年2月14日、衆議院本会議場。大喪の礼直前。
(2) 竹下内閣総理大臣謹話、天皇死去に際して。


問42 天皇制と差別の問題は、どう関係するのですか。
答  天皇は、「日本国民統合の象徴」とされています。この条文は、けっして天皇が 「国民を統合する象徴」と解釈されてはなりません。主権者である国民の意思が、天皇によって統合されることがあってはなりません。しかし、事実としては、天皇にたいする過剰なまでの思い入れが事あるごとにあふれ出て、天皇が日本国民を統合しているかのごとき光景が現れます。また、そのような権威強化をはかる手立てが、一般参賀であり、園遊会であり、公的・私的の各種の行事への参加です。まるで天皇を国民の上に君臨するかのように特別視することは、そこに貴賎を生じさせ、差別を産み出すものとして作用してきたし、現に作用しています。この国において、人権感覚の培われない要因のひとつに、このような差別を助長させる天皇制があります。私たちは、天皇によって、再び意識統合されることを拒否しなければなりません。
 また「日本国民統合」ということで、日本国民だけがまとまるという状況は、そこに外国人差別を生み出し、またある人たちは天皇を「民族統合」の象徴と理解して、少数民族差別を引き起こしています。およそ、少数者がどのように処遇されているかによって、人権保障の状態をはかることができます。多数の人々の意見に、異を唱えることが、ただちに非難の対象となり、排除されたりします。天皇の地方旅行における精神障害者への差別、また女性は天皇になれないという女性差別、世襲による皇位継承という血統差別など、天皇制と差別は深い関わりをもっています。このような家柄、血筋による身分差別や序列の意識、貴賎の観念、民族的優越感や排外意識などをたどつていくと、天皇制につきあたらざるをえません。天皇制と差別は、深い関わりをもっています。象徴天皇制の真の問題性は、明示的にか、あるいは暗黙のうちにか、こうした差別や人権侵害を生み出し、正当化するものとして作用していることです。





 五 靖国神社問題

開43 靖国神社とはどんな神社ですか。
答  東京の九段にある靖国神社は、最初は東京招魂社(1869年=明治2年6月から10年間)と呼ばれていました。明治維新(1868年)の内戦(「戊辰戦争」といいます)のときに、天皇側に立って旧幕府側と戦い、いのちをおとした人々の「霊を慰め」るために、明治天皇が現在の場所に建てたのが、靖国神社の創建の由来とされています。
 その後、1879年(明治12年)6月4日、別格官幣社(国から特別支援を受ける神社)となり、靖国神社と改称されました。明治天皇の命名による「やすくに」には、「国を平安にし、平和な国をつくる」という願いがあり、また「靖国」は「安国」と同意義であると説明されています。
 このような由来をもつ靖国神社は、それ以後数々の戦争において、天皇の軍隊に所属し、天皇のためにいのちをおとしたことが認められた人々の「霊場」とされてきました。つまり、靖国神社といえば戦争と戦死をイメージすることが定着してきたといえます。


問44 戦後は、靖国神社は国との特別な関係は、なくなったわけですね。
答  そうです。戦後は、他の宗教と同じ立場に置かれました。つまり、一宗教法人となったのです。
 戦争中、神社は宗教ではなく宗教を超えたものであるという神社非宗教論・超宗教論のもとで、国民に神社参拝が強要されていました。靖国神社も、軍国主義的神社でしたから、「靖国で会おう」が、兵士の合言葉のようになっていました。
 このように、戦争中の靖国神社は、侵略戦争を遂行するための精神的支柱の役割を担っていましたから、戦後日本を占領していた連合軍は、廃絶の対象にしていました。そのような厳しい状況の中で、靖国神社は、占領軍の宗教政策であった信教の自由・政教分離の原則を守る道(宗教法人の道)を選択したのです。これは、靖国神社の歴史の中で初めてと言ってよい、重要な決断でした。
 そこで、敗戦直後の靖国神社は、廃絶を免れるために、それまで天皇の軍隊を中心に合祀(ごうし)していた祭神の幅を広げ、いわゆる文化の功労者をも祭神の対象にしようとしたり、表玄関の境内を平和神社であることを印象づける努力を払ったり、実に様々な方法を駆使して、軍国主義的神社の面影を無くすることに懸命でした。


問45 しかし、「靖国神社法案」が出た頃は、再び国との特別な関係を求めたのではありませんか。
答  確かに、その後の靖国神社は、残念ながら、宗教法人の道を歩むというより、その道から逸脱した方向を選択しました。いわゆる靖国神社法案の成立をめざす方向です。
 靖国神社法案の成立をめざす推進派にとって、その目的は要約すれば三つありました。第一は天皇の靖国神社公式参拝の実現、第二は戦死者を靖国神社に公に祭ること、第三は靖国神社に公に祭る費用を公的に支出することでした。
 この時の靖国神社は、戦前・戦中と変わらない意識を持っていました。つまり、国家性のつよい特別な神社であることを主張していたのです。したがって、宗教法人であれば当然の、戦後の占領軍の宗教政策、日本国憲法第20条、第89条などの信教の自由・政教分離の原則を正当に評価する姿勢に欠けていました。


間46 ところが、靖国神社は、「靖国神社法案」を断念したのですね。
答  そうです。靖国神社法案が、宗教の面から見て、靖国神社の祭り方や服装の外形にいたるまで、靖国神社の従来の伝統を無視する驚くべき国家管理法案であることから、さすがの靖国神社も、法案成立への運動を中止するに至りました。
 こうして、「靖国神社法案」は成立しませんでしたけれども、その後、靖国神社の心配していたことが起こった出来事をひとつ紹介しましょう。
 1985年8月15日、時の中曾根康弘首相が、戦後初めて、閣僚と集団で、靖国神社公式参拝を強行しました。その時、靖国神社の伝統的な参拝方式をむりやり変更させたのです。靖国神社では二礼二拍手一拝で参拝するのですが、一礼方式で強行してしまったのです。政府の立場では、二礼二拍手一拝ではあまりにも明白な宗教行為と見なされることから都合が悪いので、公式参拝を合憲とするためにも、靖国神社の宗教のありかたを無視して、政府の考え方で納得させようとしたのです。靖国神社の関係者は、今でもこの出来事に心の痛みを感じています。


問47 しかし、「お国のために死んだ人」を、国は無視してよいのでしょうか。
答  この間いは、靖国神社法案を推進していた人たち、また現在靖国神社公式参拝を推進している人たちが好んで用いる有力な手段であり、国民感情に最もよく訴えるものの一つです。
 しかし、第二次世界大戦に際して、多くの日本人を死に追いやった直接の責任者であるA級戦犯を祭っていること、また、日本兵がアジア太平洋地域の侵略地で「現地調達」の名のもとに、食料等だけでなく、婦女子を犯し、人道的に見て非道の限りを尽くしてきたことは、明白な事実です。したがって、靖国神社に祭られている人が「お国のために死んだ人」であるかどうかは、国民感情からも疑わしいものとなっております。まして侵略され殺された遺族は、深い悲しみと憤りに包まれており、その傷あとは今も完全には癒えておりません。
 「お国のために死んだ人」かどうかは、遺族や国民一人一人の心の問題であり、思想・信教の自由を尊重する戦後の新憲法から国民が自己の良心において考える事柄です。戦後の日本にあっては、「国」が、戦死者の価値を判定すべきではありません。これは、国が国内外の戦没者遺族に補償すべきこととは別問題なのです。


問48 それでは、毎年8月15日に行われている「全国戦没者追悼式」は問題ないのでしょうか。
答  鋭い質問です。実は、現状は大変な問題をかかえています。
 政府主催の戦没者追悼式という性格を考えますと、文字どおり、追悼にふさわしい式次第・態様で行われなければならないはずです。ところが、1975年8月15日以降、追悼式の名称はそのままですが、式典の真正面に設けられていた「戦没者追悼之標」の文字が、「全国戦没者之霊」と書き替えられました。「追悼」とは、「死者の生前をしのび、その死を悲しむこと」を意味します。この感情は、人間にとって普遍的な感情であって、宗教者、非宗教者を問いません。「全国戦没者之霊」という文字になった瞬間、国による宗教的表現の選択を意味することになったわけです。
 そうすると、「お国のために死んだ人の霊を慰める」という、いわゆる「慰霊」が問題になってくることになります。「霊を慰める」という宗教行為は、けっして、国家が扱うことではないからです。


問49 すると、国が8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めたことは、問題があるわけですね。
答  そのとおりです。8月15日は終戦記念日、敗戦記念日として、国民がさまざまな「記念」のしかたをしてきました。ところが、1982年から、政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と制定し、国民に「追悼」と「祈念」を呼びかけています。
 その場合、「追悼」される戦没者は、事実上、靖国神社に祭られている、いわゆる天皇の軍隊の250万人、および空襲などで犠牲になった60万人の計310万人であり、日本人に限定されています。このような「追悼」観から出てくる「平和」観は、おのずと他をかえりみない自己中心なものとなります。そこで日本キリスト改革派教会は、1982年第37回大会で抗議声明を出しました。「追悼あるいは祈念のごとき宗教あるいは精神のいとなみに属する事柄を全国民を対象とする公の式典としておこなうことは、思想・良心および信教の自由を侵すものである」、また、2000万人に及ぶアジア太平洋地域の犠牲者を無視して自国民の戦没者310万人のみを対象とすることは、「道義的責任をまぬかれない恥ずべき行為である」と。


問50 2月11日の「建国記念の日」はどうですか。
答  よい着眼点ですね。8月15日を記念した「8・15集会」があれば、2月11日を意識した「2・11集会」があるわけですから。
 この日は、1967年2月11日より「建国記念の日」という国民の祝日の一つとなっています。これは、1873年(明治6年)、「天皇は神聖にして侵すべからず」という天皇主権下で「紀元節」とされた2月11日を復活させたものです。「紀元節」とは、神話に基づいて、神武天皇という架空の人物とされる天皇が初代天皇の位についたことを記念する「祭日」でありました。日本キリスト改革派教会は、1965年第20回大会で、「祝日法案に対し反対声明」を出してこう言っています。「政府提案による2月11日を建国記念日となす祝日法案は、神道的神話を国民に強制し、さらに憲法に保障されし信教の自由と政教分離の原則を破壊するおそれのあるものとして、我等はこれに反対する」。
 したがって、改革派信徒にとって、この日はたんなるお休みの日ではなくて、信教の自由と政教分離の原則を覚えて過ごす一日なのです。


問51 元号法の制定は、靖国問題とどんな関わりがあるのでしょうか。
答  元号問題と靖国問題とは、天皇主権思想で深く関わっています。「建国記念の日」が建国神話に基づく天皇の国家支配を意味するように、「元号」はその後の歴史を天皇が支配していることを国民に意識させようとするものです。
 明治以前は、天変地異、戦乱、疫病、天皇の交代等の理由で改元されていましたが、明治以後の政府によって、一人の天皇の在位期間を表す「一世一元」制が導入されました。それによって、天皇は即位後、その死にいたるまで、主権者として日本国と日本国民の上に君臨することを告げるのです。
 それでも明治・大正・昭和を使った方が時代をイメージしやすいという人はいるでしょうが、これを1979年という時点で法制化したことに、靖国問題との関連で問題があります。つまり、1970年代前半に「靖国神社法案」を断念した推進派の大きな運動方針の一つを、政府が容認したということです。もちろん、元号を使おうが使うまいが自由であることを、時の大平内閣は文書をもって約束しましたが、法制化に伴う諸問題が今日まで起こっています。
 日本キリスト改革派教会は、「今後は、この法律が国民の良心と思想の自由を侵すことのないように」抗議声明を出しました(1979年6月6日)。


問52 靖国神社と軍事的国際「貢献」の関係は、どうでしょうか。
答  PKO法が「成立」したことを認める立場を前提にすれば、それは同時に、海外派兵を含む国際「貢献」を意味します。その結果、派遣要員の公的死ということが起こるでしょう。
 その場合、靖国神社は、従来と同じように、その死者を「平和の殉難者」として祭ることでしょう。靖国神社が「祭る自由」に基づく合祀を行うことは、十分に考えられます。憲法的視点から言えば、天皇条項(第1〜8条)、戦争の放棄(第9条)にとどまらず、第20条(思想・信教の自由)にも甚大な影響を及ぼすことは避けられないでしょう。
 そうした意味でも、靖国神社問題はまさに本格化の時代に入ったと言うべきでしょう。しかも、国際化の時代における靖国神社といった、複雑・多様な広がりと深さを持ったものとなるでしょう。





 六 戦争と平和


問53 戦争は、なぜ、起こるのですか。
答  ずいぶん短刀直入な質問ですね。しかし、聖書からも、この根源的な問いを考える例を見い出すことができます。
 たとえば、アブラハムと甥のロトは同じ土地に住んでいましたが、時とともにどちらの人口も家畜も増えていきました。そこで両者の「家畜を飼う者たちの間に争いが起きた」のです(創世記13章)。これが典型的な戦争の起こりでしょう。神がお造りになった人類はもともとみな兄弟であり、「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28)の文化命令を実行することは祝福でありましたが、堕落後は健全に機能しなくなったからです。
 ですから、「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」 (ヤコブ4:1)と指摘されるように、私たち人類の罪の性質が、戦争が起こる根源的な原因といえます。
 すると、この地上に平和を作り出すことは無理でしょうか。これも、アブラハムの例に学ぶことができます。アブラハムのように、ロトに良い土地を譲ることができれば、争いを避けることができるのです。しかし、そのような犠牲は、神の約束を信じてイエス・キリストを待つような信仰において可能だったといえましょう(ヨハネ8:56)。


問54 しかし、聖書の中には、戦争を肯定している箇所があるのではありませんか。
答  その問いは、特に旧約聖書を読んでいる時に起こってくるものでしょう。イスラエルの民が約束の地を征服していく時に、神自ら先頭に立って戦われるかのようであり、さらには、神の命令による、征服民族皆殺しの記事さえあります(出エジプト記〜土師記)。驚きと恐れを覚える聖書箇所ですが、二つのことを知る必要があります。
 一つは、聖書は、堕落後の人類のありさまの中で語られているということです。つまり、まずは戦争を肯定も否定もせず、常に戦いがあるという、堕落後の状況あるがままの現実の中で神の国の進展がなされていきます。その際、実際にはイスラエル人が戦っているのですが、主役としての主なる神が先導者として描かれるわけです。
 もう一つは、聖書の救済史において、約束の地を神の国となすための「戦い」を、今日の「戦争」と同一視することはできないということです。ちょうど、ノアの箱舟の記事における大洪水のように、神が罪を滅ばす意味で人類を滅ぼされるような、神の宗教行為です。ですから、旧約聖書の多くの戦いの記事は、今日私たちが知っている「戦争」とは違いますし、「戦争」を肯定しているのでもありません。


問55 今日、戦争をどう考えたらよいでしょうか。
答  そうですね。今日の戦争は、昔のような戦争とは違いますね。
 まず、侵略によって領土を奪うというような戦争は、今日の国際社会では認められません。また、20世紀の二つの世界大戦の結果、戦争の規模と戦争の武器が大きくなりすぎて、地球そのものの存在があやうくなっています。
 特に日本は、第二次世界大戦においてヒロシマ・ナガサキを体験し、核兵器の恐ろしさを身をもって知りました。それ以来、国々はさらに破壊力の大きな兵器を開発して軍拡競争をしてきましたが、全面核戦争をすることはできず、国の経済力も弱ってしまうので、すでに大量殺戮兵器削減の時代に入っています。
 しかし、今日も、世界各地で、民族的・宗教的な地域紛争が起こつており、それらは経済的にも武器の流通においても世界全体と関係していますから、国際間の秩序維持を、世界全体の責任として考えていかなくてはなりません。
 堕落後の治安維持のため、神は一般恩恵に基づく剣の権能を与えておられますが、これが大きな武器を伴わない、すなわち、軍事力によらない国際警察力として、各国の健全な法律としても国際法としても確立される必要があります。しかし、このような議論は、教会的に一致するのはかなり困難であると思われますので、キリスト者一人一人の良心と決断が重んじられねばならないでしょう。


間56 PKO、PKFとは、何ですか。
答 これが今日、国際治安維持を考える上で具体的な問題ですから、事柄を正確に理解しなければなりません。
 まず、PKOとは、「ピース・キーピング・オベレイションズ」の略で、「国連平和維持活動」と訳されます。「平和を維持するために活動しましょう」という声に反対する人はいないでしょう。しかし、「そのためには軍隊が必要です」と言う声には誰もが賛成するでしょうか。
 そこで、ピース・キーピングのための「オベレイションズ」という言葉の正確な理解が必要になってきますクこの言葉は単なる「活動」ではなくて、「軍事作戦」を意味します(お手元の辞書でご確認ください)。そこで、PKOから必然的にPKF、すなわち、「ピース・キーピング・フォース=平和維持軍」が出て来る仕組みになっているのです。
 つまり、国際貢献なら誰もが頁献したいと願うのですが、中身は軍事的頁献であると知ると、それは正しいだろうか、憲法上許されるだろうかと、疑問や反対の声が出て来るわけです。そこで、PKO、PKFの問題は、おおざっぱな国際頁献の問題ではなくて、国際治安維持をどうするかという問題であると、正確に理解する必要があるわけです。


問57 ウェストミンスター信仰告白第23章2節の「合法的戦争」を、どう考えたらよいでしょうか。
答  「合法的に戦争を行うこともありうる」という表現は、戦争を肯定しているのではないか、という懸念ですね。
  確かに、ウェストミンスター信仰告白は、絶対平和主義、絶対非戦論の立場をとっていません。しかし、ウェストミンスター信仰告白のその箇所を考える時、17世紀という歴史背景も考慮しながら、三つのことを心がけねばなりません。
  第一は、第23章全体の主旨をよく読むことです。そうすると、おもに言わんとしていることは、神が堕落後の秩序のために、各国の為政者に剣の権能を与えておられるということ、その付随的な事柄として戦争のことが触れられているという点です。つまり、国と国との交戦権を言おうとしているのではなくて、国内秩序のことを教える章です。
  第二は、第23章のその主旨から2節を読むと、キリスト者が為政者の立場に立ちうること、そして、国家間の戦争については非常に消極的であるということです。「正しい、またやむをえない場合には」という限定条件は、かなり厳しいとみなければなりません。特に、今日では、「正しい」戦争について、ますます多くの人が疑問をもつようになりました。
 第三は、ウェストミンスター信仰告白全体から、国家的為政者の剣の権能の行使のあり方を考えることです(第23章の他、第1章6節、第19章4節、第20章2節・4節など)。そうして、今日の国際間での治安維持活動はどうあるべきかを考えることです。


問58 日本国憲法は、戦争と平和を、どのように規定しているでしょうか。
答  日本国憲法は、前文で恒久平和の理想を掲げ、第9条で、戦争の放棄とそのためには軍隊を持たないことを規定しています.
 1946年11月3日の憲法制定時には、占領軍総司令部も、制憲議会も、法学会も、徹底した戦争の放棄と軍備の禁止において一致していました。つまり、憲法前文と第9条の解釈は、基本的に、「非武装平和主義」でありました。
 しかし、1950年の朝鮮戦争勃発以後1991年の湾岸戦争に至る過程で、多様な解釈が 表れるようになりました。大きく二つの見解があります。一つは、「侵略戦争を禁止したものであって、自衛戦争を禁止したものではない」という解釈、もう一つは、「国権の発動ではなく、国連の指揮で行われる戦争であればよい」という解釈です。
 今日、個々のキリスト者が、現実には多様な立場をとりうる状況にあるとしても、憲法制定時の平和主義の理想を追い求める姿勢は堅持したいものです。戦後五十年国会決議も、「本院は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を洪えて、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する」と語っています。国民一人一人が、憲法本来の主旨を確認して、その決意を実践する者になりたいものです。


問59 日本国憲法の平和の理想は、国際的に通用するのでしょうか。
答  世界のどの国も軍隊をもち、徴兵制を敷いているので、日本のように戦争を放棄し、そのためには軍隊を持たないという憲法第9条の平和主義の基本理念は、国際的に通用しないのでは、という心配ですね。
 確かに、日本国憲法のような、根本的に非武装平和主義を主張する憲法は、世界に例がありません。では、日本国憲法の平和主義は、世界の常識から見て、現実離れした理想主義なのでしょうか。
 そうではありません。この平和主義は、人類が味わった世界戦争において、特に日本が悔い改めと新しい決意を表明したものであり、国々の理想を表した、人類共有の平和主義なのです。憲法前文はこう言っています。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
 つまり、日本国憲法の平和主義は日本だけの平和主義ではなく、ついに核戦争まで体験した人類が、共通の願いをこめて告白した平和主義の理想と見るべきです。したがって、現実の国際治安維持活動のあり方を、一歩一歩、日本国憲法の平和主義の理想に近づけていく必要があります。また、世界の核兵器削減と軍縮の具体的努力は、そのような歩みに向かっていると見ることができ、これを押し進めるべきです。核兵器の時代の戦争は、創造への挑戦なのです。


問60 戦争が起こると宗教利用が起こるのは、なぜですか。
答  それは、いざ戦争という時、戦う兵士のために、死の意味づけと勇気づけを行いたくなるのが指導者の常だからです。
 最近は、戦争まで世界中でテレビ観戦するありさまですから、報道のあり方によっては、宗教戦争であるかのような一面も伝えられます。
 1991年の「湾岸戦争」では、あたかも、西欧キリスト教文明と中東イスラム文明が、ユダヤ教を挟んで戦っているかのような報道がなされました。これは誤解ですけれども、背後に指導者の宗教利用があったから生じたものです。
 多国籍軍の代表である米国の大統領は、「正義のために戦っている」自国の兵士のために「神」に祈るよう国民に呼びかけ、イラクの大統領も「この戦いは異教徒に対するイスラム教徒の聖戦だ」と呼びかけました。しかし、石油や領土の問題で争いが起こっているのですから、宗教のための戦争であるはずがありません。どちらも、宗教を利用しているにすぎません。
 冷戦後の国際秩序が求められている中で、民族主義の続出という国際情勢が表面化しています。その多くが宗教的結束を伴っていますが、日本的な民族主義も勢いを得てくると、いざ戦争という時、戦死者の死の意味付けとして、靖国神社問題がいよいよ問題になってくることになります。
 信教の自由と政教分離の確立が、ますます求められる時代となりました。


問61 平和を作りだす努力も必要ではないでしょうか。
答  おっしゃるとおりです。戦後50周年を期して、私たちは、主イエスの言葉に従い、平和を実現する者となりましょう(マタイ5:9)。戦後補償の問題は、今なお未解決であり、国家と国民の課題です。さらに、伝道と愛の行いによる平和の増進は、教会とキリスト者一人一人の課題です。
 「主キリストの支配がいまだ公には現されず、完全には認められないこの世の続く限り・・・・、教会と国家はいつも神のみことばによって改革される必要がある」のですから、希望もあります。神の国の完成を待ち望みながら、平和を作りだす努力がけっして無駄には終わらないことを信じましょう。
                                 (30周年宣言 四)




    
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