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日本キリスト改革派
   大垣教会  月報
 
生命のいずみ
 
(第26号 2006年3月)
 
 
 
 

      信仰の問題として憲法改正を考えよう(下)         辻 幸宏

  前回、信仰の問題として、憲法改正議論を考えていかなければならないということを語り、そこには二つのポイントがあると語りました。繰り返しになりますが、第一は、戦争の問題に関わります第9条の問題です。そして第二の点は、信教の自由の問題です。

 今回は、第二の議論となります信教の自由について考えていこうと思います。現憲法下の下、私たちは信教の自由が確保されています。またそれが当然のことと思っています。それは、憲法第20条(信教の自由)において下記の通り規定されているからです。
 (1)信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 (2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することは強制されない。
 (3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。

 そして、この第3項の運用を巡って、小泉首相の靖国神社参拝問題が議論されなければなりません。純粋に、憲法を文言通り適用すれば、為政者が公に靖国神社に参拝することは出来ないのです。
 しかし、現政府の為政者は、あくまで天皇そして靖国神社を中心に据え、国民を枠にはめ、政治に口を発することが出来ない状態にしようとしているのです。そして、現在自民党において議論されている新憲法第二次草案では、次のように語るのです。
 第20条(3)国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。
 これは、明らかに、現在問題となっている靖国神社の問題を含め、戦前行われてきたような、「神社は宗教ではあらず」とすることを目的としたことであり、著しい信教の自由が束縛される憲法となります。

 ちなみに戦前・戦中の大日本帝国憲法においては、
 第28条 日本臣民は安寧秩序を妨けず及臣民たるの義務に背かざる限に於て信教の自由を有す。
となっていたのであり、「安寧の秩序」「臣民の義務」において、信教の自由を狭め、天皇崇拝、神社参拝を強制した上での信教の自由となり、クリスチャンにとっては、偶像崇拝を禁じる第二戒違反に問われるような信仰の自由しかなかったのです。
 そして、この帝国憲法第28条を強力にするために定められたのが治安維持法でした。これは思想信条のすべてに適用されて行ったのです。
 そして、戦前・戦中の日本のキリスト教会は、神社・寺社と共に宗教として認められたことを誇りとしていたのですが、実態は、天皇を認め、神社参拝を行うことを条件であったのであり、偶像崇拝を行う、さらには戦争に荷担していく大きな罪を犯したのです。

 従って、自民党憲法草案が、新憲法として認められていくような状況になれば、キリスト教会は、再び偶像崇拝との戦いが強いられるのであります。
 さらに、現国会において法案が提出されようとしている共謀罪は、実際に実行された刑罰のみならず、計画される、あるいはそれ以前に話し合うだけでも、実行罪と同じように処罰することが出来る刑法です。従って、この共謀罪が適用されれば、小泉首相の靖国神社参拝に反対声明を出している日本キリスト改革派教会は、即さま、「国家反逆罪」などにおいて、処罰の対象となるでしょうし、そこに集う牧師・信徒も、処罰の対象となってくることもあるのです。
 実際に、「即」そのような状況に追い込まれることはないにしても、そのような危険性を秘めた法律、憲法改正が、今、私たちの国において審議されようとしているのです。私たちは、この状況に対して、目を閉ざしていてはなりません。

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