ウェストミンスター信仰基準概観図
  (作成:辻 幸宏)


ウェストミンスター信仰告白

  「ウェストミンスター信仰基準」日本基督改革派教会大会出版委員会編、
   1994、新教出版社

  1964年訳  日本基督改革派教会信条翻訳委員会

  *聖書の表記は口語訳聖書で表記しています。
   新共同訳訳聖書で異なる部分は、括弧内に表記しています。

  *コメントは、編者(辻 幸宏)が個人的に付加したもので、本文にはありません。
   なお、1648年版とは、"THE WESTMINSTER STANDARDS An Original Facsimile
   by The Assenbly of Divines"(ISBN 1-889058-05-X)の本文のことです。

  *なおこのページは、大垣教会牧師辻幸宏が管理していますが、
   ウェストミンスター信仰基準を公開するにあたって、日本キリスト
   改革派教会大会議長書記団に承認をいただき、また新教出版
   社にも了解して頂いています。





第1章 聖書について

1 自然の光および創造と摂理のみわざは、人間を弁解できないものとするほどに、神の善と知恵と力とを表わすとはいえ(1)、しかしそれらは、救いに必要な神とそのみ旨についての知識を与えるには十分でない(2)。従って主は、いろいろな時に、いろいろな方法で、ご自身の教会に対してご自分を啓示し、み旨を宣言し(3)、また後には、その真理を一層よく保存し広げるためと、教会を肉の腐敗と悪魔や世の敵意に対して一層確立し慰めるために、その同じ真理を全部文書に委ねることをよしとされた(4)。これが、聖書を最も必要なものとしているのであって(5)、神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている(6)。

  1 ロマ2:14,15、ロマ1:19,20、詩19:2-4(1-3)、ロマ1:31,2:1(*)
      *ロマ1:31と2:1を比較
  2 Tコリント1:21、Tコリント2:13,14
  3 ヘブル1:1
  4 箴22:19-21、ルカ1:3,4、ロマ15:4、マタイ4:4,7,10、イザヤ8:19,20
  5 Uテモテ3:15、Uペテロ1:19
  6 ヘブル1:1,2


2 聖書すなわちしるされた神のみ言葉という名の下に、今では、旧新約のすべての書が含まれている。それらは、次のものである。
 旧約聖書では、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、土師記、ルツ記、サムエル記上、サムエル記下、列王紀上、列王紀下、歴代志上、歴代志下、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩篇、蔵言、伝道の書、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。
 新約聖書では、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる福音書、使徒行伝、パウロのローマ人への手紙・コリント人への第一の手紙・コリント人への第二の手紙・ガラテヤ人への手紙・エペソ人への手紙・ピリピ人への手紙・コロサイ人への手紙・テサロニケ人への第一の手紙・テサロニケ人への第二の手紙・テモテへの第一の手紙・テモテへの第二の手紙・テトスへの手紙・ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの第一と第二の手紙、ヨハネの第一・第二・第三の手紙、ユダの手紙、黙示録。これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である(1)。

  1 ルカ16:29,31、エペソ2:20、黙示22:18,19、Uテモテ3:16


3 普通に経外典と呼ばれる書は、神の霊感によるものではないから、聖書の正経典の一部ではない。従って神の教会内では何の権威もなく、ほかの人間的な文書と違ったどのような仕方ででも是認されたり使用されてはならない(1)。

  1 ルカ24:27,44、ロマ3:2、Uペテロ1:21


4 聖書がそのために信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない(1)。

  1 Uペテロ1:19,21、Uテモテ3:16、Tヨハネ5:9、Tテサロニケ2:13


5 わたしたちは教会の証言によって、聖書に対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう(1)。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るものである(2)。

  1 Tテモテ3:15。
  2 Tヨハネ2:20,27、ヨハネ16:13,14、Tコリント2:10-12、イザヤ59:21。


6 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない(1)。それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯(きゅうじょう)的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること(2)、また神礼拝と教会統治に関しては、常に守られなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があること、を認める(3)。

  1 Uテモテ3:15-17、ガラテヤ1:8,9、Uテサロニケ2:2
  2 ヨハネ6:45、Tコリント2:9-12
  3 Tコリント11:13,14、Tコリント14:26,40


7 聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない(1)。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる(2)。

  1 Uペテロ3:16
  2 詩119:105,130 


8 (昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である(1)。それで、すべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである(2)。しかしこれらの原語は、聖書に近付く権利と興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているすべての神の民(3)に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し(4)、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために(5)、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない(6)。

  1 マタイ5:18
  2 イザヤ8:20、行伝15:15、ヨハネ5:39,46
  3 ヨハネ5:39
  4 コロサイ3:16
  5 ロマ15:4
  6 Tコリント14:6,9,11,12,24,27,28


9 聖書解釈の無謬(むびゅう)の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らなければならない(1)。

  1 Uペテロ1:20,21、行伝15:15,16


10 それによってすべての宗教論争が決裁され、すべての会議・古代の著者たちの意見・人々の教義・個人の精神が検討されなければならないところの、またその宣告にわたしたちがいこわなければならないところの至高の審判者は、聖書の中に語っておられる聖霊以外の何者でもありえない(1)。

  1 マタイ22:29,31、エペソ2:20、行伝28:25(*)
      *エペソ2:20を行伝28:25と比較